インスタント魔王様

3章

「うぅ〜ん……」
 妙な熱さが不快感をあおる。反対方向に寝返りをうつ。がっと腕に当たる感触がある。布団にしては硬く、でも柔らかさも同時にある。手頃な柔らかさと大きさ。ぼんやりとした意識がみのりにそれを抱きよせさせた。
「はふぅん♪」
 蹴り飛ばした。
「えっ、おかしくね? そこ朝から抱きよせてらぶらぶちゅっちゅの展開じゃね?」
 蹴り飛ばした。
「なにしてんのさ」
「同衾?」
「疑問系じゃなくていいよ」
「公認?」
「ありえないだろ」
「和姦?」
「僕の攻略難易度高いよ」
 再度蹴り飛ばしてから、朝のあいさつもそこそこにリビングへと向かった。
 トースト二枚、ジャム、湧いたコーヒーをテーブルに並べる。
「で、なんで?」
「そりゃあ、もう決まってるじゃないですか。夫婦ですし」
「ジャムたりないみたいだね」
「やめて山盛りやめて古墳みたいにしちゃうのやめて!」
「で、なんで?」
「……いや、マスターは昨夜勇者に勝っちゃったじゃないですか」
「どちらかというと葛葉さんがだけどね」
「それで勇者の力が弱り、リブを縛りつけていた封印も弱ったみたいなんですよ。これ幸いと思ったリブはこの混乱に乗じて、憧れのヒモ生活を始めてみたわけです」
「迷惑な話だ」
「それよりマスターのほうこそおかしくないですか?」
「何がさ」
「こちらとしても急な同棲の始まりかなーと、恋する魔乙女みたいなピュアハートをもてあましているというのに、マスターはあんまり慌ててないじゃないですか」
「そうだね」
「なにげに朝飯もちゃんと用意してくれてますし、デレ期来るの早すぎません?」
「ジャムたりないみたいだね」
「やめてこれ以上盛ったらビン一本あいちゃうからやめて!」
 ビン一本丸々盛ってやったトースト片手にリブは涙を流す。みのりは食べ終わった食器を手に台所へと向かう。
「ご両親は?」
「いないよ」
「…………あれ、地雷踏みました?」
「いや、別に。そういうわけじゃないんだ」
「……さしつかえなければ、詳しく」
「母さんは朝から仕事。帰ってこない日も多い。あまり顔を合わせることもない」
「お父上は?」
「どっかいった」
「…………あれ、もう一回踏んじゃった系?」
「そういうわけじゃない。僕が気にしてないってのも大きいんだけど。父さんはどこかにいるってのが一番正しい」
「いまいちよくわかりませんね。シュレディンガーの父親的なものですか?」
「正直僕もよくわからない。けど近所での目撃情報は多くてたまに家に寝てることもある。だいたい父さんと母さんがそろってるときはどっちも寝てるときが多い」
「お、お仕事は?」
「さあ、わからない。きいたこともない。母さんが働きづめだから働いてないのかもしれない。それでもうちはなんとかなってる」
「……おう……リアルヒモじゃないですか……」
「そうなのかもしれない」
「でも、そうだからマスターはこの状況でも慌てないのですか?」
「そうなのかも、しれない」
「それ以外に理由があると?」
「ただ流されただけだよ」
「……そうですかー」
 部屋で制服に着替えて戻ってきてみるとリブの制服に着替え終わっていた。
「ほら、学校行くよ」
「あぁ待ってください。まだ髪のセットが」
「早くね。竜童たち待ってるかもしれないから」
「すぐ行きます」
 長々とドライヤーをかけるリブを残し、みのりがドアに手をかけたとき家のベルが鳴った。
「はい。どちら様ですか」
 ちょうど出て行くところだった。インターフォンを確かめるまでもなくみのりは何も考えずにドアを開けた。
「……と、トイレを貸してくれないか」
 葛葉姫奈がそこにいた。

「受難の相とかでてるのかな……」
「トイレの相とかでてるのか……」
「二人してなにやってんですか。手のひら見たところでわかるわけないでしょう」。
 三人で歩く。行き先は学園の途中にあるパン屋。竜童と春野がそこで待っている。
「葛葉さんは何でうちに?」
「最初はいつも通り学園に向かっていたのだ。だが学園に近づくにつれて、その……突然花を摘みたくなってな」
「それでも葛葉さんがうちに来るのは関係ないんじゃ?」
 尿欲を持てあました姫奈は、自身でも本当に疑問のように首を傾げる。
「そのはずなんだがな……。ある方向に向かって進むと、その、欲求が静まることがわかってな。やむをえずそちらへ向かうことにした。そして収まり始めた頃、見えた表札に書かれていたのがみのりの名字だった」
「その話だと、うちに来たときにはお花摘む気が失せてたんじゃないの?」
「そう思っていたんだ、私だって……だが安心して気が抜けたのがたたったらしくてな」
「家の前で膀胱が限界を迎えたんですね。さすが膀胱炸裂ガール」
 真っ赤で怒る姫奈をリブはひらひらとかわす。僕を挟んで。
 リブが姫奈に聞こえないように小声で話しかけてくる。
「昨夜はガンガントイレに行っていたのに、急に恥ずかしがり始めましたよ、こやつ」
「どうしてなんだろうね」
「素でそれ言っちゃうんですか」
「いや、僕だって本当に何でかわからないし」
「うーん、おそらくこれは一種の制約みたいなものだと思われます。マスターの能力は三分間魔王としての力を移譲するというもの。言っちまえば三分間無敵みたいなもんです。それだけの力となれば契約者に対し制約がついてもおかしくはありません。さらなる尿意の増加とか」
「僕の力はそんなに……!」
「マスター自身は雑魚ですけどね」
「お黙り」
「このままですとチート街道まっしぐらですので、これくらいの対価は支払ってもらわないと」
「ということは、私は毎朝こんな思いをしないといけないのか。毎朝……」
「毎朝うちのトイレ行きたいの?」
 殴られた。

 竜童と春野と合流した。
 春野がこちらを見つけるないなや手を振ってくる。
「おぃーす! ……ってあれ? 姫奈ちゃんと……誰?」
「葛葉と、誰だ?」
 急に現れた新顔に二人は動揺している。効果はバツグンだ。
「おはよう。今朝から私も一緒に登校させてもらう」
「別に構わないが……」
 憮然と応えているように見えて、竜童の内心は緊張で満たされていることだろう。微妙に姫奈から遠ざかるように後ずさりしている。いらんチキンっぷりを発揮している。
「竜童くん……」
 そんな竜童を見てキュンキュンきてる可哀想な子がいた。
 保護欲か。女子は保護欲に弱いのか。学んだ。
「うーんと、その、従兄弟……」
 とっさの機転が利かずしどろもどろになるみのりの隙に、いち早くリブが反応する。
「隠し子です」
 空気が凍った。
「ですから、隠し子、です。勇成リブ。お気軽にリブとお呼びください」
「い、妹さん?」
「本当か、みのり?」
「いや、その」
「生き別れだった兄様――みのりとはつい先日会うことができました。ふしだらな父に連れられ各地を放浪としていたのですが、兄様との出会いを期に一緒に住むことに決めました。みなさんこれからよろしくお願いしますね」
「そうなんだ……」
「知らなかったぞ……」
 唯一事情を知っている姫奈だけは軽い身振りでちょいちょいとみのりを引きよせる。
「本当か?」
「君は昨夜何を見てきたのですか」
「魔王少女」
「なぜ自分のことしか覚えていない」
 残念な子だった。
「そ、そっか。でもそうかもしれないよね」
「うん、まあ、ありえない話ではない」
 二人は納得してくれた。納得……しちゃった……。
 残念な子たちだった。
「では行きましょうか」
 落ちつかない一人と残念な三人に比べ、余裕をたもっているリブが主導権を握っていた。
 みのりは群からささっと飛び出しリブに駆けよる。
「よくあんなのでいけると思ったね」
「フフーフ、巨乳とマッチョは馬鹿が相場です。巨乳は馬鹿が相場です。巨乳は馬鹿です」
「同感だ」
 ダークサイドに堕ちた二人を放って、遅れてついてくる竜童と姫奈のもとまで戻る。
「急に二人増えて、大所帯になちゃってごめん」
「ううん、それは別にいいよ。みんなで学園行ったほうが楽しいだろうしね」
「ひとりぼっちはさみしいもんな」
「三人で三年間学校行くって思ってたけど、これからは五人。うん、いいんじゃない」
「昔は俺とみのりの二人だったものな」
「『熱い時代だったな』――って後ろから僕のセリフ捏造しないでください」
「見たかったなー二人の愛が浅かった時代」
「僕が言うのもなんだけど、ほんと急で。特に妹とか。……よく二人とも納得したね?」
「そりゃあ、だって」
「まあ、なあ」
「……さしつかえなければ理由を。できれば忌憚なく」
 さっと目をそむけられた。
「その、みのりくんのおじさん、よく、この辺で女の人と出歩いてるから、その、ねえ」
「う、うむ。まあ、なんだ手が。相毎度違うのも、また漢らしいというか、なんというか……見習うべきだよな」
「相手は綺麗な人ばっかりで……その、みのりくんのお母さんでは、ないみたいだけど」
「お、俺も、ああなりたい」
「うん、そっか。……そっか」。
「あ、お、遅れちゃうね。急がなきゃ!」
「お、おう、そうだな」
 さっと二人は駆け出し、ダーク貧乳どもに追いついた。

 靴箱で上履きにはきかえるとざわめきが聞こえた。
「何だろう?」
「掲示板のほうみたいだな」
 竜童と春野を連れそって掲示板前のざわめきへ向かう。
 むらむらと熱気をかもすほど集まった若者の頭が、視界を妨げる。限界まで爪先で立ってみても、一向に衆目の向く先が見えない。
「うーよく見えないー」
「僕も無理。竜童は?」
「ちらっとは見えるが……ダメだ。俺も少し厳しい」
 一番身長の高い竜童が諦めたとき、春野の頭がぐりっとひねられた。若干頬が上気し、目が輝いている。鼻息も荒い。怖い。
「でも見ずに教室行きたくはないよね!」
「まあ、気にはなるね」
「なら合体だ!」
「春野、意味がわからない」
「二人で、『合☆体』だッ!」
「用語? 用語なの? 僕たちが被害にあう用語なの?」
「今回はどっちが攻めで、どっちが受けがいい? ハルとしては朝だから一夜明けてまだ気怠さが残るまどろみの中でいやいやながらも竜童くんがノリノリのみのりくんに乗っかられるようになるのがムッハァーーーー!」
「落ち着いて」
「ああぁ、あぁぁん、でも、でもでもでも! そんな弱気受け受けの竜童くんが急にノリ気になっちゃって、その豪傑たる体躯を活かし、ピサの斜塔のごとく硬く傾いて剥けた朝勃ちの棟をこうズブッと濡れそぼったみのり菊門に……!」
「春野、鼻血」
「いいね、いいね! 超いいと思うわこれ。これいけるわ。オリコンいけるわ。覇権握ったわ。夏と冬は壁もらったも同然! 勝った。このアイディア……! 勝ったとしか思えない!」
「で、具体的にこの場で合体ってなに?」
「えっ、肩車のことだよ?」
「勝手に深読みしちゃったよね僕が悪かったんだよねごめんね!」
 久々に半ギレした。
「くっ、竜童も何か言ってやれば」
 苛立ちまぎれに水を向けると、竜童はかがんで背を向けた状態でみのりを待っていた。
「……来い」
 肩際に覗く耳が少し赤く、なんとも言えない気分になる。
 結局春野が言っていたとおり、竜童の上にみのりが乗っかる形をとった。敗北感がなぜかあった。
「見えるか?」
「なんとか見えそう」
「竜童くん、後頭部の感触は?」
「硬い」
「だよね! ハルの睨んだとおりだね!」
「バンダナの結び目が」
「惜しい!」
 みのりは無心になった。掲示板に目をこらす。
「新しいポスター?」
 掲示板には見慣れた部活勧誘や校内新聞、教育関係のポスターがベタベタと貼られていた。それより上によく目立つ位置に新たなポスターが貼られている。
 誰もが持っているようなコピー紙に書かれていた。かっちりとしたフォントで見栄えがいいとは言いがたい。小さくマークみたいなものが付随しているが詳しくは見えない。
 だが書かれている文字は読めた。
 
 おいで おいで かわいいぼうや
 いっしょにあそぼう たのしいあそびをしよう
 おいで おいで かわいいぼうやたち
 わたしたちは ひとりじゃない

 面白がって笑っている生徒、素っ気なくたちさる生徒、不審げにささやきあう生徒。
 どれもまともにとりあっていない。ただの悪戯だと思っている。
 みのりはそうは思わない。
「なに、あれ」
 悪寒が身をかけずり回る。恐怖がこっそりと忍びよる。不快な笑顔が脳裏をちらつく。
 誰かの悪意が胎動する。
 学園に新たな魔王が現れた。
「マスター!」「みのり!」
 喧噪の合間をぬってリブと姫奈が同時にやってきた。竜童と春野の隙を見てそちらに向かう。
「見た?」
「見ました」
「見たぞ」
「何、あれ?」
「わかりません。現段階ではポスターが貼られた以外には何もおこっていないようです」
「私が見た感じでもそうだ。それとポスターの下側に、これが」
 姫奈が何かを差し出した。
「これは」
「ステッカーですか?」
「そのようだな。他にも結構な数があったが気味悪がって私以外に手を伸ばしたものはいなかった。私が来る以前の様子はわからないが」
 みのりはステッカーを観察した。
 頭から三角耳が生え、下がった目尻に三日月型の口元。下部に「Ich existiere uberall」の一文が添えられている。
「これが、魔王……」
「マスターほどヘタレではなさそうですね」
「黙ってなさい」
 ポスターに比べて力が入ったステッカーに意味があるのか。誰が何の目的でこれを作ったのか。みのりとリブに関係あるのか。どれもわからない。
 ただ、これが始まりなのだとは、わかった。

「皆、静かにしろ」
 静かな一喝が響き、場は静まり返った。騒ぎを収拾しようと生徒会の面々が廊下の奥から出てくる。
「落ちつけ。たちの悪いイタズラだ。皆、教室に戻るがいい。この場は今から生徒会が取り仕切る」
 絆創膏を顔に貼った獅童が言った。掲示板を囲んでいた生徒たちは名残惜しそうにしならがらもいそいそと教室へ急ぐ。
「兄上」
「姫奈……それに勇成。貴様がこれをやったのか」
「違いますよ」
「先生がたは朝会で忙しいから、私たちが来てみればこの有様だ。どう落とし前をつけてくれる」
「だから僕じゃないですって。無実ですよ僕は」
「だがしかし魔王となると貴様しか」
「マスターじゃありませんよ」
「兄上、みのりではございません」
「姫奈とリブが言うなら絶対にそうだろう」
 変態は扱いやすかった。みのりをつかんでいた腕がぱっと離れる。
「ポスターは先生方に報告するまで生徒会で管理する」
 獅童は生徒会員に指示を出し、手早くポスターを回収する。そのときに気づいた。
「なんだこれは……シールか?」
「これのことですか」
 ポスターに付属していたステッカーを差し出す。獅童がそれを引ったくる。
「これは、一緒に貼られていたのか?」
「そのようですね」
「ふむ。一応これも生徒会の方で管理しておこう」
「あ、ちょっと」
「何だ勇成。これを生徒会で管理されたらまずい理由でもあるのか」
「いえ、そうじゃないですけど」
「嫌みではない。だが疑われたくないなら変な気は起こさないことだな」
 獅童はそう言い残し、生徒会面々と立ち去ってゆく。
「まずいな。これだと一切証拠がつかめなくなってしまう」
「これ、やっぱり僕に関係してるのかな」
「本物の魔王を知っている人間は限られていますから、そうではないでしょう。ですがいらぬ心配は潰しとくに限ります」
「ちょうどいい。この三人がそろっていることだ。アレをしよう」
「あれとは?」
「あーまためんどくさそうな展開きそうですねー」
 リブの嫌そうな反応を無視して、姫奈は笑みを輝かせた。
「対魔王部の活動を開始する」

「兄上。手伝います」
「来なさい、姫奈。羞恥心なんて捨てて兄の胸に飛びこんできなさい」
 獅童は快く姫奈を受け入れた。姫奈は顔が劇的に引きつりそうなるのを根性で押さえている。
「結構大きな騒ぎになったねー」
 朝のホームルーム前の教室。竜童と春野がみのりの席にイスを近づけ三人で話し込む。
「先生が遅れてるのも、さっきのやつで話しこんでるって噂だよ」
「はぁ……」
「んー? みのりくんテンション低いねー朝いっぱい女の子に囲まれたのにねーどうしてだろうねー」
「大丈夫か、みのり」
「最近イベントがてんこ盛りでね。ちょっと疲れてるだけだから」
「竜童くん、座薬をうってあげなさい」
「みのりが望むなら」
「よろしい。ではまずベルトに手をかけて――」
「そういうのが疲れるって言ってるんです!」
 ぐったりと机にうなだれる。頬を冷やす感触が気持ちいい。
「それにしても魔王とは、なんだ」
「あれ竜童くん知らないの? たまに噂になってるやつ」
「知らん。……あまり人と話さな――」
 竜童が悲しいことを言いかけたので二人でさえぎる。
「うぅーまあ知らなくても無理はないよね。男の子って女の子とよりはあんまりそんな噂とか話さないだろうし」
「僕もそんな話しないしね」
「今度ベッドの上でしてあげてね、みのりくん」
「場所をそんなとこに限定しないでください」
「えっ、外とかが……いいの? 野獣プレイ? みのりと野獣?」
「その例えの敵は強大すぎる」
「アナとケツの女王?」
「無理あるよね、それ」
 みのりの活力が急速に減衰していく。めんどくさいことこの上ない。
 そんなみのりの様子を見て、春野はくすりと微笑みをこぼした。口元が淫靡に曲がり、嗜虐的な声音がみのりの耳朶を打つ。
「でも、みのりくんは何か知ってるんじゃないの?」
 一瞬ぞくっと背筋が寒くなったが、みのりは平素をよそおう。
「特に思い当たることはないよ」
「ほんとかな〜?」
 さらっと春野が背後に回った。
「昨夜のことは関係ないのかな?」
 ささやきが、吐息とともに耳から入りこんでくる。
「『魔王』を追ってたんじゃないかな?」
 みのりはすっと身を起こした。
「わっ」
「あれは関係ないよ」
 極力平坦な声で言った。
「びっくりした……」
「どうした。二人とも」
「なんでもないよ」
「おらーちょっと遅れたけどホームルーム始めるぞー」
 担任が教室に入ってくる。皆が慌ただしく自分の席に戻り始める。
 まだ後ろにいた春野がまた耳元で囁いた。
「みのりくんはどう思う?」
 春野はそれだけ囁いて席に戻る。
 みのりは答える気がなかった。
 身を起こしたときに狙って当てた感触を思い起こしていた。
 それだけが心地よかった。

「お帰りなさいませ。マスター」
「お帰り。ご主人」
 即行ドアを閉じた。眉間を揉んで前を向く。『リブブのアトリエ』と新たなネームプレートが追加されていた。
 放課後。仮部室に来たらこれだった。少しだけ開けて覗いてみる。
「何を恥ずかしがっている!」
「――!」
 せっかく少しだけ開けたのにバーンとドアを開かれる。
 メイドだった。ダブルメイドだった。
「何、この安易なテコ入れ何?」
「ですよねー。リブもいくら何でも安直すぎだと思ったんですが、こちらのかたが言うことを聞かなくて」
「……おかしい、もっと喜ぶと思ったのに……血を吐いて喜ぶと思ったのに……」
「どうして何かが足りないことに気づかない」
「マスターそれ今本人に向かって言ったら死にますよ。広辞苑くらい分厚い背脂とかラードとか、とにかく脂肪でぶん殴られますよ。自前のないから」
「やめてくださいしんでしまいます」
「絶対領域だけで我慢してくださいよ。ほら見せてあげますから」
「いやいいよ、リブのは。見苦しい」
「許さん!」
 すでにお茶が用意されていたテーブルに座る。幸い並んだ茶菓子はまともなもので、無意味なメシマズに出くわさずみのりは静かに胸をなで下ろした。
「なぜだ。なぜメイドで喜ばない」
「喜ぶ前に驚きがね」
「な、なら嬉しいのか、いまは」
「半分」
「何が足りない? 今から急いで取りよせ……ん、なんで目を逸らす」
「もういいじゃないですか。傷が増えるだけですよ?」
「そうか。これ以上みのりにつめよるのも可哀想だよな」
 そのまま何も知らない姫奈でいてほしかった。
「そんな服をどこで?」
「ふふふ、konozama暮らしのリブエッティと言われたほどですから」
「一人で? あの勇者との間だけで?」
「やめて傷を増やさないで!」
「葛葉さんは?」
「実は私物だ」
「……意外な趣味もあるんだね」
「意外とはなんだ。私は可愛いものは普通に好きだぞ。これなんか……そうか、これはそういえば、兄から……兄から、もらったもの。だった、かな……」
「ごめんなさい」
「まあいい。その兄も今となっては情報源の一つだ」
「それは今日のですか?」
 姫奈が取り出したのは今朝のステッカーだった。
「ポスターも生徒会室にある。どちらも今後しばらくは生徒会で管理するらしい」
「先生たちは何も言ってこなかったの?」
「先生がたのほうでも何か問題があったようで、それどころじゃなかったようだ」
「でもいきなり魔王だなんて。噂はあったって聞くけどさ」
「私も知っていたぐらいだ。結構な生徒が知っているんじゃないか」
「そんなに有名なんですか。この学園に魔王がいるって噂。あまり聞いたことないですけどね…………なんですかその目」
「君の姿が目撃されてたから、こんな事態になったんじゃないのか」
「失敬な! そんなことありえませんよ。これでも身を隠すことについては気を配ってきたほうです。夜逃げ用の身辺整理もばっちり。あまり学園の中を出歩くこともなかったので姿の目撃は絶対にありえませんね」
「じゃあリブは無関係ってこと?」
「そうなるとマスターも関係ないんでしょうねぇ、一応」
「しかしタイミングがな。ステッカーまで用意されている辺り、突発的な事件とは思えない」
「そうだよね……」
 この事件は姫奈の言うとおりに計画的なものだったのだろうか。
 魔王になって早二日たち、三日目にしてこれだ。順風満帆とはいかない。
 それでもみのりは言う。
「まあ、なんとかなるんじゃん」
「……楽観的すぎるぞ。現状、自分が一番危うい立場にいることがわかってるのか」
「わかってるよ」
「ならどうして」
「僕なら受け入れられる」
「何を?」
「これからのこと」
「……本人がそういうのなら、まあ、いい」
 一旦切り、姫奈はまっすぐにみのりを見据えた。
「だが忘れるな。どんな状況になろうと私たちは味方だ」
「面白い主人なのでそう簡単に見捨てたりはしませんよ」
「頼もしいね」
「ただし精力がつきない限りの話です」
「空気読めよ」
 姫奈がパンと両手を打ち、緩みかけた空気を引き締める。
「よし。これより新生対魔王部の活動予定をたてるぞ」
「とは言っても別にできることってあまりありませんよね」
「情報収集くらいは可能だ。各自使えるすべてのツテを使って、今回の魔王事件について調べてくれ。集まった情報は相互に教えあう。私は生徒会を中心に探りを入れてみる」
「ならリブは同学年から聞いてきますね。マスターたちの学年とは違った話なり噂があるかもしれません」
「じゃあ僕は、僕は……あんまり、できることないな……」
「はんっ」「ふっ」
 鼻で笑われた。
「みのりは大人しく待っていればいい。下手に動いて疑いを増すのは好ましくない」
「雑魚は引っこんでていいですよ」
「……善処します」
「あとは後手にまわるようで癪だが『魔王』が動くのを待つしかない。では、これで本日の対魔王部の会議を終了する」
 姫奈はテーブルに手をつき勢いよく立ち上がる。
 今日は黒だった。
 悪くない。

 そして魔王は動き出す。
 扉の上から黒板消しが落ちてくる。トイレの個室から出られなくなる。上履きはなくなる。異常なまでのラブレターが靴箱に突っこまれる。スプレーによって落書きされる。タイヤはパンクする。机の上に花瓶が置かれている。トイレは詰まる。傘はなくなる。教師の車のミラーが割られる。
 そして魔王は増え続ける。
 そして事件は増え続ける。
 そして魔王は誇示する。
 すべての犯行現場に、すべての犯行に使われたものに、すべての魔王が残していく。
 すべてに貼られたステッカーが魔王の仕業だと告げてくる。
 そして魔王は隠れきる。
 犯人は誰かの魔王でしかなく、魔王は誰のものでもある。
 そして魔王は気づきだす。
 おいで おいで かわいいぼうや
 いっしょにあそぼう たのしいあそびをしよう
 そして魔王は理解する。
 おいで おいで かわいいぼうやたち
 そして魔王は歓喜する。
 わたしたちは ひとりじゃない
 そして魔王は暴走する。
 そして二週間が過ぎてゆく。
 そして魔王は止まらない。


 そして最初の魔王は笑う。


 学園の空気は異様だった。
 一見して暗さが噴出し、ピリピリした空気が滞留していた。覇気のない生徒や教師がうぞうぞと学内を練り歩く。どんよりとした重苦しさは際限なく伝播していく。
 言葉少なに五人は校門をくぐった。
「みんな暗いですね」
「……しかたがない。こうなるとは私も予測できなかった」
「今日もこんなに重い感じの一日なのかなー。はぁ……ハルきついわー」
「俺と違ってみのりは楽そうだな」
「顔に出てないだけでそんなに楽でもないよ」
 五人同時にため息をつき、靴箱へと向かおうとした。
「なんですかね、あれ?」
 最初に気づいたのはリブだった。つられて四人がリブの視線の先を追う。
 ポスターを初めて発見したときのあの日のような人だかりができていた。
「竜童?」
「竜童くん?」
 竜童が駆け出していた。四人も慌てて走り出す。
 取り囲むように並んだ生徒たちの山に竜童は勢いを殺さずつっこんでいく。
「どけっ!」
 驚いた。
「竜童が初めて怒鳴った」
「今の竜童くん……なんか怖いね」
「天城があんなに焦ってるとはな」
「ガタイも相まって激コワですね」
 ようやく四人も追いつく。囁きが聞こえてくる。
「やばくねこれ」「派手にイったよな」「うわーこれ今までで一番ひどいんじゃないの」「誰がやったんだろうね」「決まってるじゃないそんなの」「どうしてわかるのよ」「おい見ろよ、あれ」「あのステッカー」「また魔王か」。
 みのりの鼓動が早くなる。少し強引に人波をかきわける。
 花壇が崩壊していた。
 縁石は踏み割られ、プランターは倒れている。じょうろは折れ、土に突き立てられていた。その天辺にはステッカーが貼られている。
 竜童はひざまづいていた。土がつくのも気にせず、肘までついている。
「……」
 かける言葉が見当たらない。
 竜童の顔が上がった。手を崩壊した花壇へと差し出す。
 枯れた花を、優しく手に取り、抱くようにたぐりよせた。
「竜童……」
 みのりはそっと竜童の背に手をのせ、気づく。かすかに震えている。
 竜童の手が動く。白く小さい石のようなものをつまんでいた。
 それが指先からころりと手のひらに落ち、手がしろばむほど思い切り握り潰された。粉々の白がこぼれ落ちていく。
 竜童は無言で立ち上がり、歩き出す。生徒たちは竜童が通るための道を自然と開けた。
「竜童くん」
「天城」
 竜童はそのまま靴箱ではなく校門に向かい、振り返ることもなく去っていく。
 みのりは不安そうに眺めていた三人のもとに戻る。
「天城は花が好きなのか」
「そう。花が好きで園芸委員にも入ってるくらいだからね」
「なら、あの花たちは」
「あの花壇は竜童のお気に入りで一年の頃からよく面倒見てたやつだったんだ。この間僕も手伝ってあげた。すごい楽しそうに花を植えてたよ」
「それで、あの反応か」
「あの様子だと帰っちまったんですかね」
「さあね」
 リブに対するみのりの反応でぴくっと姫奈の眉が跳ねる。
「追いかけなくていいのか?」
「一人にしておいてあげたほうがいいと思う」
「何かひと言くらい慰めがあってもいいんじゃないか」
「それで竜童が静まるならそうしてたさ」
「本当にそう思ってるのか」
「もちろん」
「これが正解だというのか」
「間違いではない」
「親友ではないのか」
「それに近しいとは思っている」
「君は――」
 いつの日かの何倍もの力でネクタイをつかまれる。つきあげられる。
「君はなぜ、そんなにも落ち着いているんだ」
「葛葉さんだって」
「私は理性で抑えているだけだ」
「立派だね」
「君は違う」
「どうしてそう思う?」
「答えろ」
「性質だよ」
「何を言っている」
「離して」
 みのりが姫奈の腕をつかむ。姫奈の顔が歪む。
「――つぅ、君は――」
「僕は違う?」
「……先ほどのは、すまなかった」
「僕もちょっと力入っちゃったみたいでごめん」
 みのりは装いをただした。こんな時でも顔の装いは完璧だった。姫奈に勘違いを抱かせる程度には。
 一度頭を振って冷やし、春野をみやる。
 春野は竜童が去っていった校門のほうを見つめていた。
 チャイムが鳴り、放送が入る。
「臨時の学園集会を行います。至急体育館にお集まりください。繰り返します、臨時の……」
 一度教室に戻ろうとする野次馬の生徒たちの波にのり、みのりも教室へ向かおうとしたとき春野が近寄ってきてささやいた。
「みのりくんはどう思う?」
 足を止めずに色々考え、結局最初に思ったことを口にだす。
「今は答えられない」

「先生に代わり、私が生徒代表として前に立たせてもらう。いち生徒でもある私から生徒全員に伝えたほうがいいという先生がたと私の判断からだ。
 皆知っていると思うが、ここ二週間ほど魔王と称するものによって学園中いたるところで悪質なイタズラが行われている。
 見過ごすわけではないが、はじめはたいしたものではなかった。ポスターが貼られ、そこからちょっとしたイタズラが行われたくらいだ。見つけしだい注意すればいいだろうというのが、我々生徒会と先生がたとの間で決まっていた。
 しかしその後、日に日にイタズラは悪質化していく。注意すればいいというもの以上のものもでてきたほどだ。そのうえ自己顕示も甚だしいステッカーを残してだ。
 外部のものの犯行だとは疑いがたい。間違いなく犯人はこの学園に関係があるものだ。
 そして今日、園芸委員が管理していた花壇が壊されていた。先日は、細工されたアルコールランプによって女子生徒一人が軽い火傷を負った。
 もう見過ごすことはできない。私の堪忍袋の緒はすでに切れている。
 端的に言おう。魔王とやらは今この瞬間から即刻イタズラをやめていただきたい。もしこの集会後でもイタズラが頻発するようなら、我々も先生がたとともにしかるべき手段を取ることが今朝決まった。ある意味これが最後通牒だ。
 また、イタズラを目撃したものはただちに我々生徒会か先生がたに報告してもらいたい。それは匿名の情報としてあずかる。報復は絶対にないと保証する。
 ……さて、これまでが昨日書いた草稿に今日少しつけたし先生にチェックしてもらった内容だ。
 これから先は私個人の勝手な宣誓だ。先生がたにマイクを取り上げられる前に手短に行う。
 この学園に魔王はいない。これは魔王なんてものの仕業じゃない。
 ただの人間の仕業だ。
 もし仮に魔王がいたとしても、こんなことは絶対にしないだろう。
 私はそう確信している。
 そして私は許さない。魔王を騙るものを絶対に許さない。
 もし仮に本物の魔王がいたとしたら――」
 そこで先生がステージに上がりマイクを奪い取った。
 だが獅童はマイクに食いつき、最後に言った。
「――それを倒す勇者もまた、おまえたちを絶対に許さないだろう」

「会長さん。すごい真剣だったね」
「うん、まあイメージとはちょっと違う面も見られたかな」
 昼休み。二人でイスをつきあわせる。いつものもう一人はいなかった。
「竜童くん、やっぱり帰ちゃったのかな」
「戻ってきてないってことはそうなんじゃないの」
「……みのりくん、少し冷たいね」
「いつもどおりだと思うけど」
 春野が自分のバッグから小型の弁当箱を取り出す。
「みのりくん、お昼ご飯は?」
「あ、休み時間のうちに購買で買うの忘れてた」
「ハルのわけてあげよっか? お箸一膳しかないけど」
「いやいいよ。今から買ってくる」
「でも、もうこの時間だと何も残ってないじゃ」
「人気がないパンくらいなら残ってると思うよ」
 みのりがイスから腰を上げたとき。
「おっと、兄様。早とちりはいけねぇな」
 リブが上級学年の教室にずかずかと入りこんでくる。教室中から「誰?」という視線が痛いほど刺さるが誰も直接訊きにこようとはしない。
「ほい。賢い妹さんがちゃんと兄様の分も買ってきておきましたよ」
 どさっとパンが詰まった購買の袋を机に放る。ちゃっかりイスも引きよせていた。
「その、リブちゃん……クラスの人とかとはいいの?」
「兄様のためなら安い友情など捨て、馳せ参じます」
「Go back」
「せっかく昼持ってきてあげたのに、なんなんですかそのクイッとしたサムズアップは。取り上げますよ?」
「コッペパンを要求する」
「ほいさ」
 ジャムパンだった。まあいい。
「天城さんの代わりといってはなんですが、二人だと寂しいでしょう」
 もそもそとパンを頬ばる。味気ないパンは喉を通りづらい。
「まったくもうっ。もっと楽しそうに食べましょうよ」
「僕は普通に食べてるだけだよ」
「それがいけないんです」
「二人とも、ちょっといい?」
 春野は箸を置いた。表情は真剣だった。
「何ですか?」
「二人は今回のことどう思う?」
「どうも何も単に卑劣だとしか思いませんね。何か面白みのあるイタズラならまだしも、これまでのはただの幼稚な嫌がらせじゃないですか」
「でも魔王なりに何かあった……って考えることはできない?」
「どういう意味ですか?」
「他の人にはわからなくても、何か魔王にはやる意味があったってこと」
「そうは考えがたいですね。今日までのほとんどは小さなイタズラばかりですし、今日の崩壊した花壇についても何があるって言うんですか? 花壇ぶっ壊しても何もないでしょう」
「そうなのかな……みのりくんはどう思う?」
 春野は真剣な眼差しをみのりに向ける。
「僕は、とりあえず竜童が可哀想だとは思ったよ」
 それだけ言ってみのりは食事を再開した。
「……兄様。それ以外何も考えていないんですか」
「あんまり」
「みのりくん、それ本当なの?」
「嘘つく意味もない」
「これだけの大事になって、本当に、本っ当にそれだけしかないの?」
 みのりはなんと言うべきか考え、結論を言う。
「僕は事実を許容する」
「兄様、もう少しわかりやすく」
「魔王が何をしようと僕は変わらない。さすがに実害もらったらちょっと怒るだろうけどね」
「……どうしてなの、みのりくん」
 震える低い声だ。
「どうしてみのりくんはそうしていられるの。これだけのことがあってみのりくんは何ともないの」
「春ちゃんこそ、どうしてそんなにこのことを気にするのさ」
「ハルだけじゃなくてみんなだって気にしてる。それなのにみのりくんは平然としてる」
「顔に出てないだけだよ」
「嘘っ!」
 春野は少しだけ怒っていた。
 取りなせるのは当事者以外しかいない。
「兄様。飯がまずくなります」
「ごめん」
「わかればいいんです。さあ昼休みも残りわずかですし、さっさと食べましょう」
 悄然とした春野は箸を持ち、平然としたみのりはパンを頬ばる。
「まずい」
 素っ気ない味がした。

 帰りのホームルーム後、掃除最中にリブを連れた姫奈が来た。
「少し気になることがある」
 姫奈に連れられ廊下に出る。
「何かわかったの」
「ああ、化学部の連中から聞いた話と私が朝見たものに関係がありそうでな」
「朝って、花壇のやつ?」
「そうだ。気にかかるのは花のことだ」
「花?」
「花嫁修業の一環として生け花などやらされて、花は少しだけ詳しいんだ」
「花嫁修業……ですか。このご時世に。……ぷっ」
「思っても態度に出しちゃいけないときってのがあるんだよ、リブ」
「……ちっ、私のことはいい。それよりあの花壇は天城が熱心に管理していたのだな」
「結構頻繁に面倒見てたね」
「なら、やはりおかしい。天城が熱心に管理していた花たちが一夜にして枯れた。様々な条件が重ねれば話は別だが、自然の状態ではそうそう一夜で枯れるとは思えない。それに私は少し見えづらかったのだが、みのりは天城の近くにいたよな」
「いた」
「そのとき天城は何か握り潰していなかったか?」
「白い小石見たいのを、粉々にしてた」
「それだ」
 歩きながら話していた三人は、職員室にたどりついた。
「三尾薙先生をお願いします」
 姫奈がかけあい、三尾薙先生を職員室前で待つ。
「それで、その小石がどうかしたんですか」
「私の読みが正しければ、その小石みたいなのは除草剤だ」
 三尾薙先生が現れる。ほわっとした若く優しい女性だ。
「あなたたち……どなたかしら。わたしの授業の生徒さんじゃないわね。どうしたの?」
「生徒会長の妹の葛葉姫奈です。現在、生徒会の魔王事件調査を手伝っています。その件についていくつか先生にお話をお伺いしたいのですが」
「べつにいいわよ。と言ってもわたし、そんなに答えられるようなこともないけれど」
「先生は化学部の顧問でありましたよね?」
「ええ。良い部活よ……部員がちょっと神経質なとこもあるけどね」
「その部員である彼らから聞いたのですが、理科準備室には強力な除草剤があるとか」
「あるわ。何のために学校が買ったのか、わたしも知りたいやつが」
「その除草剤の箱の位置が元々置かれていた場所より少しずれて、少し量が減っていたのはご存じでしたか?」
「知らないわ。わたしはそういうのあまり気にしないし。わたしよりも化学部の子のほうがあそこについては詳しいかもしれないくらいだもの」
「そうですか。あとお訊きしたことが一点。理科室の管理は万全ですか?」
「そりゃもちろん。部活で使うときは貸したりもするけど、その後わたしがしっかりと管理しています」
「それは事件が起こる以前からですか? 一点の曇りなく、夜であっても気を抜かず」
「うっ……厳しいわね」
「正確にお答えできなくても、その反応だけで結構です」
「はぁ、事件の前わたしちょっとやらかしちゃってね。ポスターが発見された日の朝、先生たち全員の前で教頭にすっごい怒られたんだから」
「では、事件後はばっちりだと?」
「先生たちもあれ以来ピリピリしちゃって。特に学校備品の管理には厳しくなったの。わたしもポスターが貼られてからは、かなりきっちりするようになったわ。でも一応その前からも他の先生よりはきっちりとしてたんだけどね」
「それは言い切れます?」
「ふふ、挑戦的な子ね。ほら理科室って他に比べて危険な薬品とかあるじゃない。だからわたしは結構気を配ってたほうだと思うわよ」
「そうですか。ありがとうございます。大変参考になりました」
「どういたしまして……そっちの男の子も何か聞きたそうだけど」
「えっ、いや、あの……」
「別に遠慮しなくていいのよ」
「ならお訊きしますけど……その、中田井先生と仲が良いらしいって」
 三尾薙先生の表情が微笑みのまま固まった。
「そんなことはないわ」
「女子が言っていたので僕がそう思ったわけじゃ」
「そんなことはないわ」
「噂ですもんね」
「そんなことはないわ」
「目撃情報とか」
「そんなことはないわ」
「本当に申し訳ございませんでした!」
「何があったのか知りませんが、完璧に地雷だったようですね」
 最後に三人で礼をして、みのりは静かにドアを閉めた。

「ドリンクバー三つ。あと季節の野菜とカニのクリームパスタ、アンチョビとキノコのイタリアンソースピザ、シーザーサラダ、ローマ風ドリア、コーンスープ、食後にティラミスとマンゴーサンデーパフェを」
「他にご注文は?」
「このタラスパ二つ」
「安いの選びますね、マスター」
「我慢して」
 オーダーを控えたウェイターはすたすたと去っていく。
 姫奈、リブ、みのりの三人は腹ごしらえもかねて学園近くのファミレスに来ていた。
「先ほどの話からもわかるように、除草剤はこの学園のものが使用されたと考えられる」
「理科準備室にあるってやつですか?」
「そうだ。しかもそれは市販されていないやつでな。手に入れるのは容易ではない。まず学園のが使用されたと見て大丈夫だろう」
「それも魔王がやったんだね」
「まず最初から振り返ってみようと思う。ポスターが貼られてからすぐはたいしたことは起きなかった。簡単なイタズラが続いただけだ」
「だから皆あんまり気にしていなかったせいで、表に出なかったイタズラもあるらしいですね」
「だが実はイタズラには周期性が見られたらしい。特定の時刻のみに犯行が行われていた。それは全事件を記録している生徒会員しか知らないはずだ。私は兄上から聞いた」
「でもイタズラは悪化した」
「イタズラの程度に差が現れ始め、周期性がなくなり、不定期になった。犯行も増えた」
「そう思えば急に犯行が活発になり始めましたね」
「それが意味するところは」
「魔王は増殖した。兄上はすぐに気づいたようだ。おそらく最初は単独犯だったのだろう。少なくともポスターが貼られるまでは一人だった。だから周期性が見られる」
「そこから最初はゆっくり、途中から急速に増えはじめる」
「魔王ごとに何をするかが違うから、程度に差が現れ、不定期になったんですね」
「そして魔王は身を隠す。魔王の群衆の中へ」
「それがステッカー。同じものを使うから誰がやったのかなんてわかりっこない」
「でも規模の大きさから見ると横のつながりはなさそうですね」
「むしろお互い魔王どうし、誰が魔王かなどわからないだろうからな」
「だからこそ競い合った。絶妙なまでに証拠という証拠を残さずに」
「これは魔王の犯行であり、自分の犯行ではない。『でも自分がやった』といったところですか」
「そうだな。これは完全に集団心理による犯行だ」
「そこで今日の花壇崩壊で、ついに完全に学園全体を敵に回した」
「はぁ。考えれば考えるほどどうしようもないじゃないですか」
「今日の一件である程度減るんじゃないかな」
「そうなればいいんですけどねぇ。お、タラスパきました」
 メインディッシュがぞくぞく届く。
「……それ全部一人で食べるの?」
「ん? そうだが。あげないぞ」
 姫奈は両腕で必死に料理をガードする。あまりの必死さにちょっと引く。
「……お腹壊さないの」
「今までこれだけ食べて壊したこともないだろうから大丈夫だろう」
「……太らないんですか」
「不思議な体質でな。あまり食べた量に体重が比例しない」
「もっと脂肪がつけばよかったのにね」
「みのりは太ってるほうが好みなのか?」
「そういう意味じゃなくて」
 目線で説明しようとしたら姫奈の手がぶれた。次の瞬間姫奈の手からフォークがなくなっていた。フォークはみのりのイスの背に突き立っていた。
「何その無駄スキル」
「淑女に対し失礼なことを考えるやつが悪い」
 すでに二本目のフォークを取りだし、パスタをすすり始めて。
「待ってください」
 いつになく冷静にリブが言った。
「何だ」
「何だじゃありません。何しめようとしてるんですか。飯食ってる場合じゃないでしょう」
「話はすんだだろう」
「あなた、何で隠したんですか」
 姫奈の手が止まった。
「先ほどの話、一ヵ所おかしいですよね」
「どういうこと?」
「ステッカーですよ、マスター。あれはどこが管理していましたか」
「生徒会……そうか。あのステッカーはどこから出回ったんだ」
「そうです。リブたちがポスターを目撃する前に持っていかれたとは考えられるでしょう。ですが気味悪がって手を伸ばさなかった生徒たちが、そんなに多くの量を持ってったとは考えられません」
「最初の魔王が新しく作り直したって可能性は?」
「そうかもしれません。ですが、そうじゃないかもしれません。生徒会室から直接持ち出せば新たに作り直さなくても問題はありません。ステッカーは秘密裏に生徒間を流れてたみたいですね。クラスの人たちが話してるのを聞きましたよ」
「そのとおりだ」
 静かに聞いていた姫奈がさえぎる。
「これは口止めされていたんだがな……あのステッカーは生徒会室から持ち出されたものだ」
「あっさり認めるとは、何かあるんですね」
「ああ。ポスターを回収してすぐステッカーの数を記録しておいたのだ。その数は事件の数とほぼ一致した。多少のズレはリブが言ったように私たちが来る前に持ち出されたものだろう」
「ということは新しく作られた可能性はほぼなしか」
「ははぁーん。そういうことですか。あなたが黙っていた理由は」
「ん、僕まだわかんないんだけど」
「つまり生徒会員に魔王を手助けした人間がいるかもしれないってことですよ。もしくは魔王自身かもしれないですけど」
「……そのとおりだ。回収して以来、部外者が来るときには必ず生徒会員が生徒会室にいるようにしていた」
「それでも生徒会員自身が持ち出したか、グルだったらステッカーは入手可能です」
「回収した二日後だ。ステッカーが一気になくなった。その間は生徒会室が無人だったことはほとんどないし、誰もいないときの戸締まりは厳重だった」
「それでもなくなった……生徒会員が疑われるのもしかたがないですね。生徒会で管理していたことも知ってて当然ですし」
「……そうなんだ。だが私にはとてもそうだとは思えない。生徒会の人間は真面目でいい人ばかりだ。今までもかなり熱心に事件を追ってきていた。あの中に魔王に手を貸した人間がいるとは私には到底思えない」
「マスターはどう考えます」
「葛葉さんがそういうのなら生徒会の人ではないと思う」
「みのり……」
「持ち出した方法は一旦置いて、視点を変えてみる。誰が持ち出して、何でそれを横流しにしたのか」
「それは魔王の犯行と見せるためじゃないんですか」
「そうだね。じゃあそれを従っているのは?」
「……おお、雑魚のくせに鋭いですね」
「ポスターを貼った人間――最初の魔王か」
「それに今日の除草剤。持ち出す方法がない」
「化学部の部員が流したんじゃないですか」
「それはありえない。彼らは園芸委員会にかなり協力していてな。季節にあった花の種を提供したり、自ら土をほぐす手伝いなどをしていたくらいだ。彼らが花を枯れさせるとはまず考えられない」
「これほど困難なことを、ただ魔王の噂に乗っかった人たちがすると思うかな」
「ようするに最初の魔王がステッカーを奪い返し、除草剤を撒いた人間か」
「あるいはそれしか行わなかったのが、最初の魔王かもしれない」
「何か気づいたことがあるのか」
 みのりは少し悩んだが、さっきの仕返しとして言わないことにした。
「別にただそう思っただけだよ」

「デザートお持ち、しまし……た……って」
「ティラミスは私……って春日女じゃないか」
 デザートを持ってきた店員は春野だった。
 ふんわりした白のブラウスに黒のエプロン。蝶ネクタイの赤が目に眩しい。下はエプロンとおそろいの黒のミニスカートで120度くらい腰を曲げればすぐに中が見えそうだった。目測だがマジで集中して計算した。
「うちは原則アルバイト禁止だっただろう」
「そんなん守ってる子少ないよー。またこの三人ってことはあのーなんだっけ? なんとか部?」
「そのようなものだ」
「バニラクリームはこっちで、イチゴシャーベットは兄様のです」
「はい……」
 昼時からあまりまともに話せていなかっただけに気まずい。
 春野はあまりみのりのほうは見ようとせず、姫奈のほうを向いていた。
「たまにここきてたの?」
「いや今日が初めてだ。ご飯も食べられて、長く話せるとことしてちょうどいいと思い」
「ふふっ、ドリンクバーもばっちりだしね。今度から来るときは一声かけてくれるといいよ。盛るよーギガ盛るよーテラ盛るよー」
「ほ、本当か。今後来るときは一声かけることにする」
「まだまだいる感じなの?」
「少なくともデザートを食べ終わるまでいる。ただその後はどれくらいいるかわからないな」
「そっかー……」
「何か用か?」
「え、ううん。別に……、じゃあ、またね」
 春野が立ち去ろうと背を向けたとき、リブの手がすっと伸びた。
「ふふーこうも短いとめくりたくなるのも世界の心理。おおっ! 真っ赤なレースとはめちゃくちゃ気合入ってますね。勝負の夜ですか?」
 短いひらひらのスカートを腰の辺りまで持ち上げる。みのりは目を離せなくなった。離す気もなかった。対面からガンガン足を蹴られたが気にしない。春野の顔がパンツくらいに赤くなる。
「――――ッ! ちょ、やめて――」
「みのり、目を閉じろ」
「これは、その、パンツじゃなくて」
「お尻を出した子一等賞とは、なるほど。さすがに一等賞級は違いますね」
「パンツじゃなくて、その……そう、大殿筋矯正サポーター!」
「ほほう、パンツじゃないから恥ずかしくないというのですか」
「いや、ちがっ、そーゆーのじゃないって!」
「うーん、それにしてもこの肉付きのいい尻。この尻は! ……嘘をついている尻だぜ……」
 ようやくリブは手を放す。店内の男性(従業員含む)全員、心の内で合掌した。
「みのりは胸派なのか? 尻派なのか?」
「どちらも縁遠い話だね」
 思いっ切り蹴られた。
 春野はパンツ色の顔で衣服をただし、トレイで後ろをガード。涙目で動けなくなる。
「まったくこうしなければ話しかけられないんですか。兄様に何かあるのでしょう」
「僕に?」
 春野は厨房へは戻らず、その場で固まり、みのりを見据えた。
「その、あと少しでバイト終わるから、待ってて……くれない?」
「いいけど」
 昼以来の気まずさを振り切れない。だがここで断る理由もない。
 春野は恥ずかしそうに厨房へ戻っていった。
「春日女に何かしたのか」
「別に何もしてないよ」
「何もしていないならあんな態度にはならないだろう。何をしたんだ」
「僕の性質について話をした」
「その性質というのは私にも言ったよな。なんなんだ一体」
「リブも気になりますね」
 隠していたわけじゃないが、あまり言いたいことでもなかった。
 だが、今はそうはいっていられないらしい。みのりは決心した。
「うちの家は色々あってね。そんなにハードな家庭環境ってわけじゃないけど、普通の範疇には入らないようなとこだった。ただそれがあまりにも長かったのが原因なのかもしれない。僕の性質を形作る程度には」
「性格じゃないのか?」
「似てるようで違う。感情の問題じゃなくて在り方の問題なんだ。スタンスと言ってもいい。僕の場合は――」
 そういえば人にこれを言うのは初めてだ。
「受容と適応」
「受容と適応……だと……」
「物事を受け入れて、流れに、環境に身を合わせる。それが大事なんだよ。キリンだってそうやって生きのびた」
「私はゾウさんのほうがもっと好きだ」
「そういう問題じゃないんですぅー」
「それは言い換えたら、事なかれ主義ってことですか?」
「大体そんな感じ。事なかれ主義βってとこかな」
「αもあったのですか?」
「そういう問題でもないんですぅー」
「だから今朝もああだったのか」
「怒っていないわけじゃない。怒りを感じないわけじゃない。ただ自然に受容して、自然に適応していく。僕はそういうふうになってる」
「つまりみのりはあれか」
「おそらくあれなんでしょうね」
「え、何もう理解しちゃったの?」
 結構マジで言ったのに。
「要するにみのりは――」
 姫奈はたっぷりの間を置いた。
「厨二病、なんだな」
「本人がそうかもしれないと気にしてることをこの貧乳は……!」
「なんだと、この厨二病……!」
 痛いところを突っつきあう。みのりは言葉で、姫奈はフォークで。勝てるはずがなかった。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
「ふぅ、はぁ、はぁ……以後、言動には気をつけるように」
 リブは二人を尻目にデザートを楽しむ。どさくさにまぎれ注文していたデザートをすべてたいらげておいた。

「だいたい胸囲の脂肪とは、望んでつけられるようなものではなくてだな」
「だったらいつも豆乳もってる必要ないよね」
「好きで飲んでいるのだからいいだろう。みのりこそなんだ受容と適応(笑)とは」
「僕のせいじゃないですぅー家庭環境のせいなんですぅー」
「私だって家のせいなんですぅー兄上があれなせいなんですぅー」
「もういいじゃないですか。どっちもどっちで」
 ファミレスを出たときには雨が降っていた。三人は雨宿りをかねて店先で話していたらみのりと姫奈の間で口論が再燃した。
「いずれ決着をつける必要があるようだな」
「Dカップを越えたらいつでも受けて立つよ」
「スタイルなんていつか成長すると思えば問題解決です」
「む。どうしてそんなに余裕があるんだ」
「今は力がなくなってしまったため、こんな体ですけれどもともとは愛があふれてるDynamiteなbodyでしたからね。マスターとらぶChu☆Chuすればスタイルなんて一発です」
「……」
「……」
「嘘じゃねぇ! 力さえ貸してもらえたら三分以上だってダイナマイトスタイルを維持する自信はありますよ」
「私はそうはならなかったぞ」
「それはあなたが複雑な衣装に力を注いだせいでしょう。あともとの体がこれじゃあ……」
「そうか……」
 悄然としてた。
「傷のえぐりあいももういいでしょう。ほら、行きますよ」
 リブは姫奈の手を取る。
「ん。なんで私だけ?」
「空気を読みなさい。ここに残ったら、この後起こりうるであろう互いに羞恥心の入り混じった青春風味の微甘クソ展開であなた窒息しますよ」
「しかし」
「いいじゃないですか。このさい側室が一人くらい増えたって。精力が増える分にはこっちにも利益はありますし」
「私には何も得がないだが」
「ほらほら行きますよー。ではマスター、グッドラック!」
 リブは折りたたみ傘をさし、駄々をこねる姫奈を連れていく。親指を人差し指と中指に挟んで振りかえる姿は心底消え去って欲しいという思いをみのりに抱かせた。
 一人さびしく待つ。二人が去ってすぐに、ドアが開く音が聞こえた。
「お待たせ。結構待たせちゃった?」
「いや、全然」
 制服姿の春野とともに雨の中を歩き出す。傘は春野が持っていた一つしかなかった。

 しばらく無言だった。
「みのりくんと二人きりってのも久しぶりだね」
「昼もそうだったじゃん」
「それは、そうだけど……いつも三人だったからさ」
「これからもそうだよ。いや、これからは五人かな」
 二人で一つの傘に入った。距離が近い。
「竜童くん、どうなっちゃうのかな」
「しばらくそっとしておいたら、落ち着くんじゃないかと僕は思ってる」
「それって、どれくらい?」
「そんなに長くはならない」
「どうして?」
「もう終わりは近い」
「それって、魔王事件のこと?」
 みのりは答えずに歩き続けた。
「なんかみのりくんって冷たいんじゃなくて、達観してるみたい」
「そう見えるかもしれない」
「どうして、なのかな」
「何が」
「どうしてこうなちゃって、どうしてそうなってるのかなって、不思議」
「それは――」
「あっ、春日女先輩。お疲れ様です」
 前から傘をささずに走っていた女の子が声をかけてきた。チア部のジャージ姿。部活の後輩なのだろう。
「みやちゃんもお疲れ。今日部活行けなくてごめんね」
「水くさいですねー。春日女先輩が部活来ないのなんてしょっちゅうのことじゃないですか」
「うぅ、行けるときにはできるだけ行くようにはしてるよー」
「ははっ。別に責めてるわけじゃないです。どうやら事情もあるみたいですしねぇ」
 みやちゃん(らしい)はみのりに流し目を向けてくる。
「こんなとこ見ちゃってから、部活に出てくださいなんて言うのは野暮ってもんじゃないですかーやだー」
 みやちゃん(仮称)は身をくねらす。雨に濡れたジャージ姿は官能的だった。これもありだと思いました。
「今日は中練? ミーティング?」
「ミーティングでしたね。今度のラグビー部の試合の応援についてでした」
「そっか。この雨で理科室むわっとしてなかった?」
「えっ、なんで理科室なんですか?」
 驚いたように聞き返す。本気でわけがわからないよ、といった表情だ。
「ううん、なんでもない。それで内容はどうだった?」
「今度は結構デカ目の試合らしいですからうちらでもバス借りちゃうみたいですねヒャッホゥー! おやつは一人五千円までヒャッホゥー! ……まあ五千円は嘘ですが」
「バスは本当なんだ」
「そうですよ。詳しくは今日帰ったらメールしときますね。ではでは、これ以上濡れるのもいやですし、お二人をお邪魔するのもいかんでしょう。ばさらっ!」
 みやちゃん(一個下)は来たときのように走っていく。みのりが目で追っかけるとそれに気づいたらしく、親指を人差し指と中指に挟み、ウィンクを送ってきた。心底消え去って欲しいと思った。
「部活の子?」
「そうだよ。元気良い子で、いつかキャプテンになるんじゃないかな」
「風格はあったね」
 また歩き出すと、春野がみのりを見つめた。
「あっ、肩……」
 どうしても入りきらない分みのりは半分肩を雨にさらしていた。
「ごめんね」
「いいんだ。僕が傘もってなかったんだし、それに雨に濡れたかったから」
 春野は立ち止まった。みのりもあわせて足を止める。
「それは、本当なの」
 呟きはかなり小さい。
「それが、みのりくんが思ってることなの」
 春野はうつむいている。
「魔王事件が起こってから、竜童くんが帰っちゃってから、さっきの話もそう。みのりくんが言ったことって、本当にそう思ってるってことなの」
「そうだね」
「みのりくんは変わってない。これだけのことがあって、近しい人が被害を受けても、これっぽっちも変わってない。それは……どうしてなの」
「昼にも話した」
「そういうことをきいているんじゃないの。それ自身についてきいてるの」
 春野が顔を上げる。涙が散る。
「おしえて」
 春野は泣いていた。
「みのりくんが、わからない」
 どこかで笑っているみのりがいた。
「それが、春ちゃんが聞きたいことなんだね」
 春野はうなずく。みのりは、やっぱり笑っている自分がいることを自覚した。
 魔王は、笑っている。
「いいよ、教えてあげる。だけどそれは今じゃない」
 みのりは手を伸ばす。春野の顔がまっすぐ、どこかで笑っているみのりに向くようにする。
 指でそっと涙を拭った。
「すべての事件が終わったとき、僕は教えるよ」

 一週間が経過した。
「こうも一気に終わってしまうとは拍子抜けだな。兄上もたまには役に立つ」
「その程度の気分で乗っかってた奴らがほとんどだったってことでしょう。横の連携がないであろうだけに口裏合わせるのも大変でしょうし」
「まあいいんじゃないかな。学園自体は平和になったよ。前に比べて」
 あの日以来、魔王は現れなくなった。本当に獅童のあの演説が効いたらしい。イタズラはぷっつりと途絶え、しだいに学園全体に蔓延していた緊張感も晴れていった。
 イタズラが途絶えてからも三人は一応活動は続けていた。今日もリブブのアトリエに集まっている。
「もう私たちも気を貼らず、あとは様子見だけでもいいんじゃないか」
「うーん、そうですねぇ。これ以上何もやってこないようなら、リブたちも動きようがないですしね。先手を打つにしても相手がいないんじゃどうしようもありません」
「正直暇を持てあましてきている感じでさえある。今日もすべきことは見当たらないしな、またファミレスでも行くか?」
「おっ、いいですね! ちょうどリブはチョコサンデーマシマシで食べたい気分でしたよ」
「私も偶然、豆乳のクリームソース風パスタが食べたかったところだ。なら、行こうか」
「賛成です!」
 二人が立ち上がる。
 二人しか立ち上がらない。
「みのり?」
「マスター?」
 二人は中腰のまま不審そうに立ち上がらないみのりを見つめた。
「まだだよ。まだ終わっちゃいない」
 みのりの神妙な面持ちを目の当たりにし、二人は再び腰を下ろす。
「なぜだ? もう事件が起きそうにはないぞ」
「そもそもを思い出して。僕たちは事件を止めようとしていたのかな?」
「一応は……というかそれ以外ってありましたっけ?」
「僕たちは魔王を追っていた」
「その魔王ももういなくなっただろう」
「まだいる。最初の魔王は、まだいるんだ」
 二人は何も言わずに座りなおした。
「最初の魔王。ポスターを貼ったものか」
「そして最後まで姿を現さなかった『人』だ」
「でも今さらどうしようってんですか」
「もう何も起こりそうにならないんだぞ」
「それはもう一度ポスターを貼られたとしても同じことが言えるかな」
 二人は押し黙る。みのりは続ける。
「この状況下、どの魔王も動き出せなかった状況下で、また最初の魔王だけが動き出したら? 別にポスターなんかじゃなくてもいい。それとさえわかるものならそれでいい。そうしたらもう一度、もしかしたら今度はもっと『彼ら』は動き出すかもしれない」
「それは……」
「……そうですね」
「この事件は根本的には終わっていない。最初の魔王をつきとめない限り」
「……少しは君を理解したつもりだったが、意外にも積極的なんだな」
「さすが我が夫。粘り強さが売りです」
「僕のほうでも事情が変わった。それに終わってはなくても終わりは近い。葛葉さんのお兄さんのおかげで、収束の方向には向かってる」
「よし。では対魔王部さいか――」
「ふはっ! まったくもってそのとおりだな。もう少し私をたたえるがいい」
「――いは、そこの変態を片づけてからにしよう」
「落ち着きなさい、姫奈。まずは座りなさい。ペン先は人の目に照準を合わせるのではなく、ノートに合わせなさい……痛い、痛い! 先っちょだけ! 先っちょだけ刺さってる!」
 誰も気づかぬ間に獅童はみのりの目の前に座っていた。
「どうしてここがわかるんですか。あなたには絶対にわからないようにしていたはずなのですが」
 流血しても不思議ではなさそうな目をさすりながら、獅童はキリっとした表情で不敵に言う。
「勘だ」
「私とかぶるのでその理由はやめてください、兄上」
「そう言うな、姫奈。せっかく事件に関係しそうなことがわかったから、私直々に教えに来たというのに」
「僕たちが知らないことですか?」
「おそらく。喜べ、貴様らのために調べたのだ。聞きたければその場で三回まわってリブを差し出せ」
「三回まわるまでもないです。どうぞ」
「身売り! 非道な魔人身取引がいまここに!」
「早くしないと滅多打ちにしますよ、兄上」
「わかった、わかったからそのバールみたいのをおろすのだ姫奈……痛い、痛い! 先っちょが! 二股の先っちょがちょっと刺さってる!」
 しばかれてから獅童は話し出す。
「……ふぅ。私はリブを知っていたからあまりピンとこなかったのだがな、どうやら三年には魔王の噂を知らなかったものが下の学年に比べ多かったらしい」
「あら、それは意外ですね」
「少し気がかりになって調べてみたところ、そもそもその魔王の噂ができたと思われるのは二年前、正確には一年前と幾月かたってかららしい」
「それは私とみのりが……」
「そうだな。姫奈とそこの小男が入学したぐらいからだ。思えばおかしかったのかもしれない。リブ、すなわち本物の魔王の存在は勇者であった人間と理事長くらいしか知らないはずだったのだから」
「それだけですか? まだ何かありませんか?」
「焦るな。もう一つ、事件発生してから先生がたのほうで鍵の管理の不始末があったらしい。すぐに解決したらしいのだが、事件が起こった矢先の出来事だったから相当大事になったらしいぞ。ふはははっ、私でさえ生徒会室の鍵はしっかりと管理しているというのに」
「生徒会室の鍵はお兄さんが管理していたのですか?」
「お義兄さんと呼ぶな……! 生徒会室の鍵は特別に私が管理している。夜中まで仕事が長引くこともあるからと、説得して許可をもらった」
「なのにステッカーの流出はあった。ダメダメですね、あなた。いっぺん死んだほうがいいです。いや、いっぺんじゃ少ないですね。二回死ね」
「リブがそういうのなら私はそれでも構わない」
「お手伝いしましょう、兄上」
「姫奈、落ち着きなさい。今はアップをしてる場合ではない。原因究明に尽力をつくすべきときだ……痛い、痛い! そこは……そこは……ああぁん。ちょっと気持ちいぃ…………」
「ん? どうしました、マスター」
 みのりは考え込んでいたが、リブの声をかけられ思考を中断した。獅童のあえぎ声もシャットアウトしたかった。
 時計を見る。五時。もうあまり時間は残されていない。
「少し用事ができた」
「ついていきましょうか?」
「いや、リブは先に帰ってて。葛葉さんは……そのままお兄さんと戯れてて」
 兄妹の仲むつまじい光景を最後にみのりは学園を後にした。

 さほど学園から遠くない住宅地内に、その立派な日本邸宅はあった。竹柵が邸宅をぐるりと囲む様は、周囲の住宅との格差がむざむざと感じられる。
 みのりは少し呼吸を整え、インターフォンを押した後、まさに和を体現してるかのような荘厳な門をくぐる。
「きたか」
「久しぶり。竜童」
 予想どおり道場のある母屋ではなく、囲炉裏のある離れに竜童はいた。
「まともに話すのはいつぶりだろう」
「花壇の惨状を見つけて以来だ」
「それからメールしか送ってなかったから、だいぶたったね」
「学園では、まともに話せなくて、すまない」
「別に謝ることじゃない」
「どうしても、まともにいられる自信はなかった」
「そう思ったから僕も話しかけなかった。おあいこさ」
「皆みのりが無視してると思ってるかもしれない」
「そう思われてもしかたないし、僕はどう思われたって構わない」
「本当にすまない。こうするつもりじゃ、なかった」
「しかたないよ。僕が竜童でも同じことをした」
 電気はついていない。火鉢からのぼる火が部屋全体をほのかに照らす。
「この一週間、何かあった?」
「死ぬ気で探したが、特に手がかりはなかったと言っていい」
「それはどんな手がかり?」
 竜童が目を見張った。竜童は寡黙で朴訥だが言外の意味を察する力は人よりも何倍も優れているということを、みのりは知っていた。
「……そうか。みのりも、わかってるんだな」
「たぶん竜童よりももっと近いところまで迫ってる」
「手がかりは、なかった。そうであってほしくないと思う手がかりは、俺が探しても、なかった」
「だろうね。竜童の追う魔王は誰よりも周到みたいだから。その逆の手がかりは?」
「なかった。単純に犯人につながる手がかりも。一応、近くのホームセンターをまわったおかげで、あの除草剤は近辺では売ってないという、間接的な手がかりはあった」
「やっぱり竜童はすぐわかったんだね。除草剤。あれ市販品じゃないらしいよ」
「……そうか。そうなって、しまうか」
「竜童はどう思ってる?」
 竜童の表情がわずかに強張った。
「みのりも、それか」
「ん? どういう意味?」
「これを。じょうろとステッカーの間に挟まれていたらしい。あそこは俺が管理していたから、これも俺が持っていたほうがいいだろうと、片づけをしてくれた人から」
 竜童が折られた小さな紙片をみのりに手渡す。
「開くな。先に俺が話す」
 みのりは開きかけた手を止める。
「俺は、許す……気はない。怒りもある。あの花たちはどんな理由があろうとただ犠牲になっただけだ」
 竜童の握った手は震えている。
「ただ、それ以上に、俺は知りたい。どうして、あんなことをしたのか。あんなことをしなければ、いけなかったのか。あの方法でなければ、いけなかったのか」
 竜童は続ける。
「一週間、探しながら、それだけ考えた。来る日も来る日もそれだけを考えた。それで俺はわかった。今渡した紙片を見て、間違っていないと俺は確信した」
「それは、開く前に聞いていいのかな?」
「いい」
 竜童は一度だけ瞬きをした。
「俺は、同じだったんだ。その一週間の俺は、俺が追っていた魔王と同じことを考えていた」
 みのりは竜童が言い切ったのが合図だと思い、紙片を開いた。
 きつかった。
「そういう、ことね」
「魔王は知りたがっている。俺と同じように知りたがっている」
 紙片を見直す。竜童の唯一の手がかりはこれだけ。これだけだから竜童は一週間もさまよった。
「みのり。俺たちは正しく理解できてなかったんじゃないのか?」
「違うよ。少なくとも竜童は間違っていなかった」
「みのり、俺はどうしたらいい」
「何もしなくていい。ここからは僕がすべきことだから」
「みのりに任せていいのか」
「長い付き合いなんだから、信じなって」
「みのりは、受け止められるんだな」
 もう一度紙片を見た。乾いた微笑が浮かんだ。
「大丈夫。今の僕なら」
 みのりは立ち上がった。座布団を踏みつける。
「もう行くのか」
「もう行かなきゃいけないんだ」
「任せたぞ」
 みのりはもう一度だけ紙片を見る。
 それはみのり宛てだった。
『ぼうやは どうおもう』
 見慣れた丸文字で書かれていた。

 見慣れた天井の光に、見慣れた丸文字で書かれた紙片をすかす。
「どうおもう」
 どう思う。今回の一件。魔王事件のすべて。何度か深く考えてはみた。
 行き着く先は同じだ。これまでと変わらない。
「僕は受け入れる」
 携帯を開く。今朝届いたメールにカーソルをあわせて開く。

 おいで おいで かわいいゆうしゃ
 ∞のもじが たったとき
 おいで おいで かわいいゆうしゃたち
 おくじょうをてらすつきあかりでは わたしもすがたをかくしきれない

 差出人はThe Devil。使い捨てのフリーメールから届いた。
 携帯に表示された時刻は七時。あと一時間で∞の文字が直立する。
 行くべきか。行かないべきか。
「行けば変わる」
 みのりの在り方が変わる。
「行かなければ変わらない」
 魔王の在り方も変わらない。
「どうすればいい」
「マスター……具合悪いんですか?」
 帰ってきてベッドに直行したみのりを、リブが心配そうにドアからうかがってくる。
「ヤンデレ?」
「惜しい」
「えっ、これマジでデレイベントですか? お粥とか代えの下着とかゴムとか用意したほうがいいんですか?」
「リブ。僕の力は?」
「それは三分間力を移譲するという……」
「それは、リブにも――」
 みのりが立ち上がったとき、ガチャッと玄関が開く音が聞こえた。
「う゛ぁーづがでだー」
 その人はのそのそと廊下を歩き、そのままダイニングへ向かい、酒とつまみが詰まった袋をテーブルに置いた。
「うびゅるぅぅ……」
 もやもやとしたエクトプラズムを吐き出し、ぐでってテーブルに突っ伏す。本当に白いもやが見えるのを、みのりは毎度すごいと思っていた。
「母さん、帰ってきたの。早いね」
「あーみのり。いたのー。今日は朝からちょっぱやだったから早めに切り上げてきちゃった。ん……?」
 ダイニング前で突っ立つみのりの横に母親の目は行く。
「あのー……」
「これは、そのね」
 百とおりほどのいいわけを考えてはいたが、いざというときに脳は役立たず。
「迷い子というか迷い魔人というか迷い猫というか幼女型のゴミというか」
「押しかけ妻というかめかけというか肉奴隷というかですね」
 しどろのもどろの二人を見やりながら、母親はカシュっと酒を開けた。
「あ゛ーう゛め゛ぇ」
「「聞けよ」」
「あん? こっちは疲れてんのよ。どうせ、ほら、あれでしょ、あのー、なんだっけ。あ、そうそう、あれ、エンコー」
「「ちげぇよ」」
「ほらあたし耳ふさいどくから。これ飲んだら寝るから。さっさとすることしてきちゃって。こっち起こさない程度でお願いね」
「あら、お優しいお母さまですね。では息子さんはいただきます」
「母さん、どうして初っ端エンコーなの。僕もしかしてエンコーでできたの?」
「そんなわけないでしょ。あ゛ー、おーいしぃー」
「スルメ置いてよ」
「え、事後なの? みのり、今事後承諾してるの? なんかイカ臭いし」
「僕が臭いんじゃないですから、母さんが臭いんですから」
「えー? あたし? 服についてんのかな? 脱ぐ」
 どう考えてもスルメの匂いだろとつっこむ前に、本当にパンツスーツを脱ぎ始める。タンクトップに短パンとだいぶラフな格好になった。
「しっかしみのりも女の子たらしこむようになったのね……ったく、似なくてもいいところばかりあの人に似ちゃって」
「父さんも、そうだったんだ」
「あーあーごめん。忘れて。そんな辛気くさい顔しないで。飲みな。ほらあなたも。名前は?」
「リブです」
「そうか。ならリブも飲みな。飲んで食って吐いて死にな」
「なぜ!」
「あたしの息子に手をだしたんだからそれくらい当然でしょう。嫌ならあたしの屍を越えてゆきなさい」
 グラスにつがれた新たなよくわからない酒を渡される。
「それでどうしたの?」
 一口飲みくだしたときに訊かれた。
「この婚姻届に判を」
「リブに訊いてるんじゃないの。息子に訊いてんの」
「なんか顔に出てる? 僕」
「ははっ、みのりは昔から何も表情に出さないようにしてたけど、あたしは一発でわかっちゃうもんね」
「やっぱり、そうなんだ」
「えっちなこと考えてたんでしょ」
「僕の隠蔽能力は完璧みたいですね」
「で、どうしたの?」
「……隙もあるみたい」
 みのりはグラスを置いた。
「悩んでる。時間もあまり残されてない。僕は揺らいでる」
「珍しい。合わせることは得意なのに」
「どう転んでも、うまくいかない」
「人生そんなことばっかりよ」
「母さんだったらどうする」
「マスター、そんな具体的なことを一切話さないなんて」
「いや、みのりのことだから、具体的な解決策をあたしに聞きたいわけじゃない。そうでしょ?」
「うん」
「しばらく話さなかったうちに、少し男らしくなったね。みのり」
 ふっと母親は微笑む。
「それでも、若いのが可愛いんだよなぁ」
「あ、それ、わかります」
「僕のことはいいんです」
「違うでしょ、みのり。結局はみのりの問題。何が起こったのか知らないけどそれは、絶対に、間違いない」
「それは……」
「どう転んでもうまくいかないことは、まあよくある。けど、みのりはまだ若い。まだ可能性を探しきれてない。それか見つけていても、見なかったことにしているのかもしれない」
 みのりは黙って聞いた。
「みのりは傷つくことを恐れる子じゃない。そもそもダメージを受けることがほとんどない。それこそ、友達が傷つこうがそんなに背負いこまないでしょう。それは相手が誰でも変わらない」
 リブも黙って聞いた。
「じゃあ逆にみのりが恐れてることはなに。それをよく考えなさい。それがあるからどう転んでもうまくいかないなんて思ってしまう。それを克服さえできれば、良い解決策がきっとある」
「僕が恐れていること」
「その顔なら、思い当たることがあるんでしょ? あたしだってこうなんじゃないかって答えを持ってるくらいだもん。今教える気はないけどね」
「何でこんなタイミングで意地悪すんですかー。息子さんが目の前で悩んでるんですよ」
「息子だから自分で気づいてほしいのよ」
「母さん」
「なに?」
「答えじゃなくていい。ヒントを」
「教えたくない」
「答えに近づくヒントじゃない。今僕が思ってる答えを確信するヒントを」
「それなら教えてもいいか」
 母親は笑った。
「みのりはどう思う?」
 予想どおりのヒントだった。
「ありがとう、母さん」
「お安いごようよ」
「僕、行ってくる」
 みのりは立つ。
「えっ、本当にそれだけですか? それでいいんですか?」
「いいのよ、みのりがそう言うなら。それに言葉が少ないほうがかっこいい」
「そういう問題で?」
「最終回とか終わり目前の母親ってのは大抵かっこいいもんなの。あとジャイアン」
「なんですかその適当理論」
「いや、この前ストレスで寝れなくて、そのとき見てた深夜アニメの母親がかっこよくってねぇ。あたしもああなりたい」
 みのりはリブに声をかける。
「リブ。ついてきて」
「いいですけど……この時間にどちらへ」
「ついてくればわかる」
 みのりは玄関へ向かう。
「みのり」
「何? 母さん」
「あんまり危ないことはしないでね」
「大丈夫。少し、倒してくるだけだから」
「そう……なら最後に言っておくことがある」
 みのりは靴をはき終え、母の言葉を待った。
「押し倒すなら、ゴム、忘れずに」
「母さん、息子の背にかけるべき言葉を大幅に間違えています」
「いや、だって。面倒だよ、マジで。マジで」
「聞きたくない! 母さんの失敗談なんて聞きたくない!」
「ばっかねーみのり、人生の先輩から聞くべきことなんて失敗談くらいしかないわよ」
「行ってきます!」
 みのりは玄関をくぐり、前の通りにでる。
「勢いよく出たのはいいですけど、まだ行き先を聞いてませんよ」
「学園に行く」
 みのりはまっすぐにリブを見た。
「リブ、魔王は何?」
「えっーとそれは今現在のマスターであり、リブでもあって」
「それでいい。なら魔王を倒すのは?」
「それは、勇者、ですけど……」
「そうだね。それでいい」
「どうしたんですか、マスター」
 みのりは空を見上げた。月が見えた。
 決意を新たにするのに相応しい、美しい夜だった。
「魔王を倒すのはいつだって勇者だ。だから、リブ。今日から僕は――」
 みのりはリブの目線にあうよう体をかがめて。
 魔王は笑った。
「魔王で勇者に成る」

「マスター、早めにお願いしますよ」
「わかってる」
 去っていくリブにそう言って、みのりは屋上に続くドアを開けた。
 八時ちょうど。静寂が漂う学園の屋上で、迷わずみのりは足を踏み出した。こっちだと思う方向に。
「止まって」
 月が照らす屋上に魔王はいた。
 自分の領域を侵されないよう警戒しているかのように鉄柵を乗り越え、静かにみのりを見つめていた。
「それ以上はこないで」
「わかった」
 素直にみのりは足を止める。鉄柵を越えた魔王に話かける。
「竜童は結構必死になって証拠を探したみたいだよ」
「どんな?」
「言わないとわからない?」
「あの花壇を見たら誰が犯人かつきとめたくなるのも当たり前か」
「やっぱりわかってないんだね」
「どういう意味?」
「竜童が探してたのは犯人が君であってほしくないって証拠だよ」
「……」
「なのにこんな紙を挟んでたせいで、すべて竜童の努力はだいなしさ」
 みのりは紙片を取り出した。
「この字、君のだよね。それにこの紙は僕に宛てて書いたものだよね」
 バンっと勢いよく屋上のドアが開けられ、新たな勇者が舞いこんでくる。
「――みのり。どうして!」
「こっちがききたい」
「帰ろうと思ったら、私の靴箱にこれが」
 姫奈が手紙を差し出した。書かれている内容はみのりのメールと同じ。
「誰がこんなことを」
「あそこにいるからきいてみれば?」
 みのりが指さす。姫奈の目は見開かれる。相手は笑った。
「あれが」
「そう」
「彼女が」
「そう」
「最初の魔王、なのか」
 姫奈と並んでみのりは向き直った。
 鉄柵に身を捧げる彼女。ここに呼び出した彼女。いつも隣にいた彼女。
 みのりは冷静に言った。
「春ちゃん。君が最初の魔王だ」
「どうしてそう思うの?」
「春日女――君は」
「それ以上近づかないで。近づいたら、わかってるよね?」
 春野は鉄柵に手をかけ、背をそらした。
「くっ……」
 姫奈は出しかけた足を止めた。
「∞の文字が立ったとき、つまり8時に屋上。その場にいた人間が魔王だ」
「ハルは偶然いただけだよ。それに最初の魔王って、あのポスターを貼った人?」
「そうだよ。あのポスターを貼って、花壇の花を枯れさせて、ここに僕たちを呼び出した人だ」
「どうしてそれが最初の魔王の仕業になるの?」
「とぼけるつもりか。ここにこうしているのに」
「待って葛葉さん。言ってることは間違ってない」
 飛び出しかけた姫奈を制す。
「この三つには、魔王の言葉が残されている。これは他に頻発したようなただのイタズラにはなかったことだ。ポスターとメール、葛葉さんには手紙、これらに加えてこの紙」
 みのりは紙を姫奈に手渡す。
「明らかに他のイタズラとは違ってわざと言葉が残されている」
「それだけの理由?」
「そうだよ。別にこれ以外のイタズラに最初の魔王が関与していないとは言い切れない。僕はしていないと思うけどね」
「ふふっ、それもそうかも」
「しかし待て、みのり。春日女には不可能だ。花壇の花はどうなる? あの除草剤は学園でしか手に入らないものだろう。それに、春日女が最初の魔王だとするとステッカーは? 春日女が盗んだというのか」
「ステッカーってこれのこと?」
 春野がみのりに投げてよこす。
「これを持っているとは……言い逃れはできんぞ、春日女」
「なんで? みんな持ってたよ? 結構前の話だけど」
「そのときの一枚がまだ残ってた。流出した一枚が。そういう意味だね」
「そうそう」
「みのり、それでいいのか!」
「だから間違ってはないって。使用されたステッカーの枚数にズレはあったんでしょ」
「……そうだが」
「それに除草剤とポスターに残されたステッカー。この二つはそう簡単に手に入れられるものじゃない」
「ならばやっぱり春日女が最初の魔王ではないと言うのか。今この状態で」
「最初から話そうか。まずはポスター。これは貼るのは夜にでも貼ればいい。朝になれば勝手にパニックになってる。おそらく最初の魔王の予想ではそれなりの枚数、ステッカーがなくなるはずだった。しかし駆けつけた生徒会によってポスターは回収された。この時点でポスターの行く先を知ってるのは、生徒会関係者とその場にいた生徒だけ。あとから話を聞いたなら別だけど」
「でも生徒会室は厳重だ」
「先に続きを。次に除草剤。理科準備室にあった市販されていないやつだ。これは学園の理科準備室にあることを僕たちは知っている。それが使用されたであろう形跡があることも僕たちは知っている。逆に言えば、そんなものが理科準備室にあることは僕たちぐらいしか知らない。あとは化学部の部員ぐらいかな」
「だが理科室の戸締まりもそれなりに厳重なのだろう」
「そうだね。つまりどっちも、どこに何があるか知っていることと部屋の鍵が重要なんだ」
「ねぇ、それだったらハルなんて全然関係ないんじゃない?」
「それは違う」
 みのりは強く言った。
「今から話すことはすべて僕が考えたことだ。どこにも証拠はない。それでも僕はこれがこの事件の全容だと思う。始まりは対魔王部、最初の活動の日」
「私たちが春日女にあった夜か」
「あのとき春ちゃんは理科室にいた。そこで部活の後片付けをしていた。そのとき理科準備室は開いていた。そこで除草剤を発見した。そのあと僕たちは保健室、職員室に向かい、シャッターで分断された」
「あの夜はそれぐらいしかないぞ」
「それだけでいい。職員室、おそらくここで春ちゃんは発見した」
「ハルが、何を?」
「マスターキーだよ。これさえあればどこにでも入れる」
「だがあのとき春日女は妙な動きなどしてなかったぞ」
「たぶん僕たち三人が職員室をうろついてたときは盗んでなかったんだ。見られたらまずいわけだし、それに――」
「――あのときはまだ鍵の場所を覚えただけだった」
 春野が補足した。
「そう、鍵の場所を覚えただけだった。ここで引き返せばよかった」
「その後、私たちは分断された」
「幸い当直の先生二人はまだ帰ってきそうにない。だからこのときに僕たちには帰ると言って鍵を盗んだ」
「その鍵を使って、理科準備室と生徒会室に入ったというのか」
「春ちゃんだったら除草剤があることも、ステッカーが保管されている場所も知っている。夜中にこっそり忍びこんで盗み出し、用済みのマスターキーを職員室に返す」
「あとは盗んだステッカーをさりげなく横流しにしていく。噂は広まりどこが発端かなどわからなくなる――そういうことか」
「葛葉さんのお兄さんが厳重でも鍵があったらドアはすり抜けられる。当直だった翌日に鍵を紛失した三尾薙先生は叱られる」
「……春日女、これを聞いてもまだ何か言うことはあるか?」
「あるよ。証拠は?」
「なに……」
「証拠だよ。みのりくんの推論はつじつまはあってる。けど証拠がないよ」
「き、君にしかこの犯行は無理だろ! 今みのりが言った話、他の人間に可能だと思うか?」
「ハル以外にはできないかもしれない。でも絶対にできないって証拠はないし、ハルであるとの証拠もない」
 勝ち誇ったように春野は言う。
「ほら誰が何をやったのかなんてわかりっこない」
「往生際が悪いぞ」
「いや、そのとおりだ」
「みのり!」
「落ち着いて。さっきも言ったとおり全部僕の考えた話であって、証拠なんてどこにもない」
「でも」
「花壇に残された紙だって、誰かが春ちゃんの筆跡を真似ればいいだけのこと。もしかしたら花壇の崩壊と花が枯れたのは無関係である可能性すらある。花が枯れた原因は除草剤ではあるだろうけど」
「だったらこの手紙は!」
「それこそ僕にだって作ることはできる」
「最初の魔王がハルであるとは限らない」
 沈黙が舞い降りる。月はまだ明るく、風の音だけが静かに場を流れた。
 それにぐしゃりという音が混じった。姫奈の手に握られた手紙が潰されていた。
「どうしてだ……どうして、こうなるんだ。みのりの考えは間違っていない。春日女の答えも間違っていない。しかし、事件は起きた。事件は確実にあったんだ」
 姫奈は一歩だけ踏み出した。
「私はそのことを忘れたりはしない。教えてくれ、二人とも。どうして――」
「それが魔王事件のもとだよ」
「えっ」
「竜童が言っていた。魔王は知りたがっている、と。そうだよ、魔王は知りたがっている」
「みのりくんはそれが正解だと思ってるの?」
「ああ。僕はそう思っている」
「……さすが、みのりくんだなぁ」
「やっぱりそうなんだね」
「どういうことだ。何を、二人で納得してるんだ」
「葛葉さん、今さらになって申し訳ないけど、実は僕は最初の魔王の正体なんて結構どうだってよかったんだ」
「なぜ」
「どのみち僕は受け入れる。魔王が何人いようが、誰が最初の魔王だろうが、竜童を傷つけようが、僕は受け入れてしまう。それが原因だった」
「原因? みのりが原因?」
「そうだよ、みのりくん」
「そこは認めるんだね」
「それは認めないとね」
「説明しろ。みのり」
「さっきの結論に至るまでずっと引っかかってたことがある。竜童から渡された紙を見てようやく確信した」
「これが?」
「今回の魔王事件は僕がどう思うかを知るためだけに起こった」
 みのりは間をおいた。
「はじめから狙いは僕だったんだよ」

「狙いはみのりだって……この魔王事件は、すべてみのりをターゲットとして起こったというのか」
「そうだよ。始まりからしてそうだった。
 あの夜、春ちゃんはつけたすようにして理科準備室に入ったことを教えた。ただ部活で使ってただけなら、理科準備室が開いていたかどうかなんて僕たちにはわからないのに。
 ファミレスからの帰り、偶然であった部員にわざわざ僕の目の前で理科室の状態をきいた。相手は何でそんなことをきいてきたのかわからないようだった。
 ステッカーに挟まっていた紙はわざわざ手書きで書かれていた。
 僕が気づくようにヒントはわざとちりばめれていた。
 そして事件が始ってから何度も春ちゃんは訊いてきたよね?」
「どうおもう?」
 春野が言った。
「ずっと僕がこの事態をどう思うかだけを気にしてきた。最初の魔王はただ知りたがっていた」
「みのりくんがどう思うのか?」
「それだけのために、こんな、学園全体を巻き込むようなことをしたのか」
「それも入学したときから、用意は怠っていなかった。魔王がいるという噂を流して。僕は犯人が誰がなんてどうでもいい。だけど、これだけは教えてほしい」
 みのりは春野を見つめながら言った。
「僕の何を知りたいの?」
 最初の魔王はうつむいて、笑顔で顔を上げた。
「ある女の子がいました。その子は昔――失敗した」
 二人は黙って聞いた。
「ささいなことがきっかけで失敗した。ある一人を意図せずして傷つけてしまった。それが原因で、みんなから小さな、された本人以外誰も気づかれないような本当に小さな悪意を受けるようになりました。
 どんなに小さくてもその子には痛みが蓄積していきます。そんなに小さいことだからした本人はあまり気にしません。それがいつもいつもずっとずっと続くとどうなるでしょうか。
 その子はやっと気がつきます。すべて受け入れてしまえばいい。
 どうしてこうなったのか。わかっていても考えません。
 どうにかできないのか。できたら困りません。
 だから事実を許容する。
 無理でした。
 その子には無理でした。
 そしてその子はなんとかして卒業します」
「それで僕に出会う」
「その子はこの学園に入学します。それまでの自分とは決別して。
 受け入れられないその子は、他の方法を探しておきました。それを実践する場が訪れました。
 その子は秘策を考えていたのです。それは誰からでも好かれる子を演じることでした。
 そしてその子は成功しました。それはそれはみんなから表面的に悪意を感じるようなことはなくなりました。
 それは特に仲良くなった男の子二人にも効果はあるようでした。
 だがその子は気がついてしまいます。
 仲良くなった男の子の片割れが自分と同じようで違うことに。
 その男の子は常に自然体でした。動じることがありません。打ちのめされることがありません。傷つくことがありません。
 自然体で受け入れます。
 女の子が昔したかったことを、自然にします。
 女の子が今していることが、馬鹿のように思えます。
 毎日必死にしていることを、男の子は自然にこなします。
 憎かった。
 心の底から憎かった。
 男の子自体が嫌いなわけじゃありません。
 それでも憎かった。
 女の子が望んだことを平然とこなす横顔は、とんでもないほどに憎かった」
「……春日女は、そんなに」
「まだ終わりじゃない」
「女の子は疲れてました。演技そのものにも疲れていましたが、それ以上に男の子を見るのが疲れました。
 嫌いじゃない。仲は良い。相手もたぶん自分のことは嫌いじゃない。
 だから羨ましい。だから憎い。だから疲れる。
 そして女の子は不意に思いつきます。
 もし男の子が、昔の女の子のような状況を知ったとき、どう思うのだろう?
 そう思ったときには、女の子は仕込み始めていました。噂がどれだけの早さで広がっていくのか、女の子は身を持って知っていたから。
 この学園には魔王がいる。
 それがどれだけの効力を持つのか、知っていました。
 一つのきっかけがあるだけでどれほどの人間が乗っかるのか、知っていました。
 でも男の子が考えていることは、知りませんでした。
 それからしばらくして最適な状況が訪れました。
 男の子がどうおもうのか知るために。
 女の子は魔王になりました」

「どうこの話。これを聞いて二人はどうおもう?」
 春日女春野が訊いてくる。
「どこにでもある、どこにでもいる普通の女の子のひとつのエピソード。そうとしかおもわない? それであってるんだけどね」
「これが、この事件のきっかけなのか」
「そう。女の子が始めた、最初の魔王の物語。そしてみんなが見て見ぬふりをする物語。知ってる? というか、見てきたからわかるよね。魔王はどこにでもいるし、誰もが魔王なんだよ」
「それはちが――」
「それは違うって、姫奈ちゃんは言い切れる? たった一人の女の子が、たった一人の男の子について知りたかっただけなのに、こんなことになって、それでも言い切れるの?」
「くぅ……」
「みんなそうなんだよ」
 姫奈は否定できない。
「でも、一人だけ違う。ねぇ、教えてくれない。みのりくん」
 自分はどうなんだろう。

「どうしてみのりくんにはできて、どうしてあたしにはできないの?」

 それが始まりだった。
「どうしてあなたは簡単にできて、どうしてあたしは頑張ってもできないの。どうしてあなたはあたしが頑張って創りあげたこの舞台でも、そんなに簡単に受け入れてしまえるの?」
 そこでみのりは気づく。
「そうか。今僕は春ちゃんでなくて、春日女春野と向き合ってるんだね」
「ねぇ、みのりくんはどうおもう?」
 春ちゃんはずっと訊いていた。この事件全体についてではない。
 この事件全体を通してみのりはどうおもうのか。
 春日女春野が望んだことを、簡単に行える勇成みのりはどうおもうのか。
 教えよう。
「教えるよ。すべての事件が終わったとき、教えると約束したから」
 そしてみのりは言う。
「別にどうも思わない。それが僕だ」
 結局そこに変わりはない。
「その女の子は決定的なミスをしている。僕は自然に受け入れるように意識しているわけじゃない。勝手にそうなってるだけだ。だから教えようなんてない。そういうふうになる方法なんて教えようがないし、どう思ってるかなんてもっと教えようがない。だって自然体がそうなんだから」
「それが、みのりくんがおもってることなの?」
「そうだよ」
「そう。やっとわかった」
 春野の力が抜けた。ふらっとその体が傾ぐ。
「やめろっ! 春日女!」
「何を焦ってるの姫奈ちゃん。まだだよ」
「何だと」
 みのりも予想外だった。が、これでいい。まだみのりの望む展開にはなってない。
「薄々そうなのかもしれないとは思ってた。いや、違うかな。聞いたところで、そうはなれないとわかってたのかも。やっぱり、みのりくんは受け入れられるんだね。だったら――」
 最初の魔王は腕を広げた。
「あたしも受け入れられるよね。こんなあたしでも、みのりくんは受け入れてくれるよね」
 風が吹く。それだけで体が揺れる。
「無茶を言うな春日女!」
「姫奈ちゃんは来ないで。みのりくんが来て。みのりくんがあたしを受け入れて」
 ようやく終わった。知りたかったことがわかった。
 最初の魔王はただ知りたがってただけじゃなく。
 最初の魔王は試していたのだと、やっとわかった。
 勇成みのりが春日女春野を受け入れられるのかどうか。
「みのりくんなら、できるよね」
 答えは決まっていた。
「できる」
 みのりは初めて恐れた。
「でも、やだね」
 正直そのときの春野の表情は見物だった。
「――」
「君が初めてだ」
 みのりは春日女春野に向かって言う。
「僕は何もしなくても受け入れられる。勝手にそうなる。だから、受け入れないということをしない――しないと思っていた」
 春野は身じろぎひとつしない。
「さんざん悩んでようやくわかった。受け入れないんじゃなく、無意識下で避けていただけだと。恐れていたから避けていた。でも、僕は今、始めて意図的にそれをやる」
 姫奈も耳を傾けた。
「僕は春ちゃんを拒絶する」
 どうなるのかわからなくて怖かった。
「こんな事件を起こしてまで僕を知ろうとする、そんな春ちゃん、僕はいらない」
「みのり、やめろ、刺激するな」
「いいんだ。これは僕が決めたことだ。僕は変容する。受け入れず、流されず、僕自身が変わる」
 何よりも恐れていたことだった。
 ようやく春日女春野は口を開く。震えた声を出す。
「それは本当なの……みのりくん」
「うん。そうしたら、君はどうするのかな? 飛び降りるのかな?」
「みのりくんでも、あたしは受け入れられないの……」
「うん。いらないからね」
「そっかぁ……」
 春日女春野は広げていた腕を降ろし、うなだれた。
「みのりくんなら、受け入れてくれると、思ったんだけどなぁ……」
「君が、僕を、変えたんだよ」
「ねぇそれは本当なの。……ううん、それだけじゃなくて全部本当なの? 本当に、みのりくんは受け入れてくれないの? そうじゃないと、あたし――」
 春日女春野は一歩下がった。
「飛び降りちゃうよ」
 春日女春野は試すように言った。
「まだ余裕が残ってるのか。僕の言い方が悪かったのかな。だったらはっきり言うよ」
 みのりは春ちゃんを完膚無きまでに拒絶する。
「さっさと飛び降りろよ」
 とどめはぐっさりささったと思った。
 春日女春野の表情が消えた。
 直後に鋭い衝撃が頬にはしる。こめかみを屋上にぶつけたことで殴られたのだと気づいた。
「……失望したぞ」
 姫奈が固く拳を握りしめ、冷えた眼差しで見下してくる。それでもみのりは笑っていた。勇者の一撃程度ではみのりは動じない。
「いたい」
「君じゃ春日女を救えない。力を貸せ、私が助ける」
「無理だね」
 もう一発殴られる。
「歯を閉じておけ」
 強引にキスされる。ヘッドバット気味の豪快なやつだった。
 姫奈は立ち上がって、表情が固まった春野に向き直る。
 魔王を助けようと勇者は立ち上がる。
 それは間違いだとみのりは思った。
「くそっ…………なぜだ! なぜ、力が移譲されない。答えろ、みのり!」
「だから無理だって言ったじゃん」
「早く力を渡せ! そうしないと春日女が!」
「静かにして」
「みのり!」
「静かに」
 みのりは口元を拭って立ち上がった。べったりと袖に血がついた。
「そっかぁ……」
「やめろ、春日女、やめろっ!」
「やめな」
「どうしてっ、くそっ、離せ、みのりッ!」
 駆けよろうとする姫奈をつかむ。ちらりと腕時計が見える。そろそろ危ない。
 春日女春野はもうこっちを見てはいなかった。
 ただその声だけが聞こえた。
「どうして、こうなっちゃったのかなぁ……また間違えたのかなぁ……どこで、失敗したのかなぁ……みのりくんは違うと思ったんだけどなぁ……みのりくんなら、大丈夫と思ったんだけどなぁ……」
「やめろ、早まるな春日女、やめろ、やめてくれ」
「ねぇ最後に教えてくれる?」
 それはみのりに訊いていた。
「みのりくんはなんなの?」
「それは君が知っている。君自身が言っていたことだから。もう忘れちゃったの?」
「あたしが言った……?」
「魔王はどこにでもいるし、誰もが魔王である」
 魔王はどこにでも存在する。誰もが魔王を飼っている。
「そうだよ。そのとおりだよ」
 みのりは笑った。
「僕も魔王なんだよ」
 それを聞いて、春日女春野は飛び降りた。

「春日女――――――ッ!」
「行くよ」
 みのりは姫奈の手を取り走り出す。姫奈は驚きと戸惑いの表情のまま手を引かれる。
 柵にたどりつく。下を見下ろす。
 虚構の魔王が落ちていく。だからあとに残るのは。
「本物の魔王だけだ」
 これでいい。計画どおりだ。――と、油断した。
「なにっ!?」
 腕が窓から生えていた。それが春野をつかんでいる。
「竜童……くん……?」
「あとをつけてきたら……どうしてこうなってる、みのり!」
 竜童は上半身を乗り出し、腕だけで春野をつかんでいた。不安定な体勢で腕が小刻みに震えている。顔が屋上を向いた。
「みのり、どういうことだ」
 みのりは焦る。本気で焦る。想定外の出来事。危うい時間が過ぎていく。
「くそっ、意外と、重いな」
「どうして……竜童くん」
「それは、俺が聞きたい。どうして、言ってくれなかった」
「え……」
「どうして、俺たちを、俺を頼ってくれなかった。教えてくれなかった」
「天城、そのままささえてろ!」
「どうして、どうして言ってくれなかった」
 ずるっと上半身がさらに乗り出された。
「あまり、持ちそうにない、早く、助けてくれ」
 リミットを過ぎた。危険な状態だ。早くしなければならない。だから魔王は言う。
「離せ」
「なんだと……! みのり、お前っ……!」
「離せ、竜童」
「お前っ、お前っ!」
「離せ。時間がない」
「みのりぃぃぃぃ!」
「竜童くん」
「春野――」
「ありがとね。あと」
 限界が近い腕にそっと手が添えられた。
「やめろ、春野」
「やめろっ、やめるんだ、春日女」
「ごめんね」
「「やめろおおおおおおおおおおおおおお!」」
 春野の手が、竜童の腕を振り払う。
 春野が落ちていく。虚構の魔王が落ちていく。みのりはそれを見届ける。
 最後の最後で春野と視線が絡んだ。
 その瞳は、何の感情も映していなかった。
「これで、いいんだ」
 徐々に春日女春野は落ちて行き――勇成みのりは成功した。
「ハイ、キャッチ〜。命綱なしのフリーフォールお疲れさまでした〜」
 ボスッという音とともに、そんな声が聞こえてくる。
「うぉー、意外と重いですねー。これか、この乳が重いのか。ふぉっふぉ〜、やわらけぇやわらけぇ。今のリブと同じくらい大きいですねー」
 姫奈は涙目で固まっていた。竜童も乗り出した身もそのままに地面の光景を見つめている。
「ふぅ。三十秒オーバー……危なかった〜」
 みのりは胸をなで下ろし、安堵のため息をついた。
「マスター。しっかりキャッチしましたよー。見てくださいこのDynamiteなbody――って、おおっと、もうですか」
 ダイナマイトボディだったリブの体がしゅるしゅると収縮して普段のサイズに戻った。抱きかかえられたままだった春野は、腰を抜かして尻を地につけている。
「なん……だと……」
「ほら、行くよ」
 手を引いて階下へと降りていく。
「いやー久々のナイスボディモードでだいぶすっきりしましたね」
「三分以上でも大丈夫だった?」
「もちろん。三分間はマスターの力で余裕ですし、少しぐらいならマスターからかき集めた精力でなんとかなります。今回ので空になっちまいましたけどね!」
「事前に聞いてたより全然短いんだけど」
「五分くらいはいけると思ったんですけどねー。思ってた以上に力の使い方を忘れてしまってたみたいで」
「みのり……これは?」
「見てのとおり。僕、ピッチャー。リブ、キャッチャー。できれば三分以内に突き落としたかったんだけどね」
「私が、救おうとしたのは」
「無理って言ったじゃん。リブに力渡してるから」
「……後半部は、なかったぞ」
「行間読んでください」
 みのりは尻もちをついたままの春野の前に立った。
「やあ、どうだった」
「どうして、こんな準備を」
「屋上には嫌な思い出があるからね」
「そんな……」
「それに、この方法が一番確実だった」
「どういうこと」
「屋上とわかった時点で、こうなるかもしれないと予測できた。助ける方法もこれしかないと。もしもっと時間がたってから飛び降りたりされたらアウト。葛葉さんにダッシュしてもらっても追いつかなかったらアウト。僕が三分間前後で飛び降りさせるように仕向けることがもっとも安全な方法だった。でも、あまり早すぎても意味がない」
「だから、私を止めたというのか」
「僕を変えさせただけの理由を僕は知りたい。そうだよ。僕は知りたかった。それにあんな春ちゃんはいらなかった。だから飛び降りてもらうことにした」
 春野が言う。
「でも飛び降りろだなんて」
「死ねとは言ってない」
「屁理屈」
「正論だよ」
 春野が目元を拭った。目は赤く充血している。よろよろと立ち上がろうとする。
 それをみのりは肩に手を置いてとめた。まっすぐに見る。
「屋上で言ったことはすべて本当のことだ。今までの春ちゃんはいらない」
 体をかがめて、目線を合わせる。
「今回の一件を通じて思い知った。君をそのままにしておくのは危険すぎる。それこそ本当の魔王に、僕に匹敵するかもしれないほど。――だから君は僕の配下になれ」
 頬に手を添える。頬は熱く紅潮していた。
「僕は変わる。僕は君を支配する。受け入れるんじゃなく、僕は君を取り入れる」
 親指の腹で涙を拭った。あのときの帰り道と同じだと思い出した。
「これは、そういう契約だ」
「おい、みのり」
「あなたは見ちゃダメ! 死ぬ! 憤死する! ジェラシー死しちゃう!」
「やめろ。私は見届けなければならない気がする」
 リブが腕を伸ばして姫奈の目隠しをする。正しい判断だった。
「君は今だけの――インスタントの魔王になれ」
「みのりくん……なにを、言ってるの……?」
「意味がわからないかもしれないけど言うよ」
 みのりは顔を近づける。
「僕は、魔王なんだ」
 熱く、乾いたキスだった。
 びくんと春野の肩が跳ね、何をされたか理解するように指を口に持ってきた。
「ほら立って」
 抱きかかえるように脇に手を刺す。
「おいみのり、納得のいく説明を。完璧に納得のいく弁明を」
「マスター、早くしないと死にますよ。ブロック持ってますよ、この人」
「おさえといて」
 腕に力をこめ、春野の体を持ち上げる。意外と重い。
 うつむいたままようやく春野が立ち上がった。と、思ったときだった。
 バフッ抱きつかれた。
「なにっ!」
「おおう!」
「!? ――!?」
 背に回された腕にぎゅうぅと強く力が込められる。背骨が軋む。
「臨死体験から始まる恋もあるらしいけどいくらなんでもこれは急すぎませやしませんか」
「何を言っている、みのり。何を抱きとめている、みのり」
「いやあなたが言ったんでしょうがってこれはその腕が勝手にでございまして僕超紳士だからそういうふうになっているってかやめてその射殺すような視線やめて!」
 ふぅっと耳に息が吹きかけられる。ぞくりと寒気が背筋をのぼる。
「みのりくん。決めたよ、あたし」
 耳から熱い吐息が入りこむ。これは危険だと全身が警告を発する。
 見えなくともわかった。間違いなく魔王は笑っている。
 耳元でささやかれる。
「諦めないから」
 目の前で魔王の尻尾が揺らめいた。



 屋上から見える空はまさに快晴だった。
「おい」
 空同様に、もしかしたらそれ以上に透きとおりかつ怒気をはらんだ声がした方にみのりは向きなおる。
 そこはまさに修羅場だった。
「あーん」
「なにこの白い汁。すごいパンの隙間からしたたってるんだけど」
「豆乳焼きそばパンだ。細かいところに目をつぶれば食えなくはない」
「おいしいというニュアンスが一切ふくまれてないね」
 汁気あふれるパンに食欲が減退。ブレザーに豆乳が落ちてくるのをどうにかしたい。
「みのりくん」
 豆乳焼きそばパン同様に、もしかしたらそれ以上に邪気をはらんだ声がした方に向きなおる。
 そこもまさに修羅場だった。
「あーん」
「なにこの黒い足。足? 足ってなに? すごいパンからはみ出してるんだけど」
「食用蛙パンだよ。毒味はしてないけど、あたしが作ったのに食べられないわけないよね」
「まずは正しい三段論法を身につけてください」
 足が突き出たパンに食欲が減退。闇鍋なみの無茶ぶりをどうにかしたい。
「はいマスター。あーん」
「二人とも別に僕の分はいいよ。今日はおにぎり買ってるから」
「え、無視? この流れで無視ですか?」
「あーらクズちゃん、まだ豆乳なんて取り続けてるの? 一向に効果は出てないみたいだけど」
「春日女は今日もそんな気色悪いものを作り続けているのか? どうせその蛙だってそこらの田んぼで拾ったものだろう」
「別にあたしが食べるわけじゃないからいいんですー」
「料理のできない女の言い訳は聞いていて可哀想に思えてくる」
「おっぱい大きくならない子って、どうしてそんなに頑張っちゃうんだろうねー。ほっとくだけでいいのにねー」
「……食ったぶんだけ腹まわりに行くくせに」
「……食べるだけで成果なんてでてないのに」
 両サイドからの呪詛を受け、今日もみのりの胃はきりきりする。
「屋上で二人で飯食ってたことが懐かしいですね」
「最近本当にそう思うよ」
「騒がしく……なりましたねぇ」
「あの頃が懐かしい」
「フラグですか?」
「ノスタルジーだよ」
「キレがないのまで忠実に再現!」
 あれから数日がたった。
 姫奈はあまり変わっていない。少なくとも見た目は。生活面では豊胸作用のありそうなものばかり食べるようになった。以前にも増して燃えている。対抗意識ごと燃えている。
「勝てるはずないのに」
 ストローでさされた。
 春野は少し邪悪になった。少し……だと信じたい。対外的な猫かぶりはやめていない。むしろいきいきして演じている気さえする。腐った笑みが邪悪のはらんだ笑みに取って代わられたのは言うまでもない。
「見た目は悪くないのに」
 目潰しされた。
 リブは相変わらず居候を続けている。以上終わり。
「えっ酷くね。もうちょいあってもいいんじゃね。それに居候じゃなくて同棲ですよ」
「どっちも大差ない」
「やったねみのりん! 家族がふえるよ!」
 魔力の枯渇をどうにかするため今後もみのりに寄生すると告げていた。母親は逡巡せずに承諾した。みのりはその日泣いた。
「ねえねえみのりくん、今度の日曜三人で即売会行かない? お昼頃から行って、夜は二人で街に消えて」
「その二人しだいで快諾します」
「えっ、もちろん竜童くんとみのりくんだよ」
「それ演技ですよね? それ演技だったんですよね?」
「あ〜でも、もう一人くらい連れてってもいいかな〜。四人ぐらいが楽しいしな〜。あっ、そうだ。リブちゃんも一緒に行けばいいんだ」
「マスターさえ行くようなら、火の中でも水の中でも草の中でもあの二次元の子のスカートの中でも」
「なぜ私が考慮されていない」
「悪いねクズちゃん、この即売会四人用なんだ」
「……ふん。まあいい。その日はもともと私とみのりの二人きりでの約束があるのだからな」
「へぇ〜何すんの?」
「部活だ」
「そうなのぉ〜みのりくぅ〜ん?」
「僕も今初めて聞きました」
「最近私への風当たりがリブと同レベルになってきていないか。どうしてそう簡単に私を売るんだ? もっと乗ってきてもいいんじゃないか?」
「ならばそのストローをお収めください。あと春さんはさっきからおっぱい押しつけてくるのやめてね、思春期の男の子は敏感だからね。もう僕の心はおっぱい程度じゃ揺るがないからね」
「……」
「葛葉さんは無理に押しつけてもわからないからね。せめてパッド詰めてから出直してこようね」
「ふふーん」
「ぐぬぅ」
 勝者は得意げに押しつけ、敗者は涙目で対抗する。
 二人の少女は少しだけ変わった。
 自分はどうだろうか。魔王になったそのときから。
 正面にはリブがいた。右には姫奈がいて、左には春野がいる。
「どうしましたか? マスター」
 本物の魔王。本物の勇者。虚構の魔王。
 それらと関わりあい、みのりは。
「少し」
 変わった気がした。
「ん? 少し、なんです? おなか空きました? そんなら――」
「む、そうなのか? ならば――」
「あっらまぁーもう? よーし、それじゃ――」
 リブは一緒に買ったおにぎりを、姫奈は豆乳焼きそばパンを、春野は食用蛙パンを。
「「「はい、あーん」」」
 つきつけた。
 みのりはしばらく悩んで口を開く。
「……もう、全部受け入れるよ」
 思ってる以上に自分は変わっていないのかもしれない。
「もらったーっ! 口移し一番乗り狙います!」
 リブが持ってたおにぎりを口にくわえ直し、みのりにつっこむ。
「なぬっ? それ、ありなのか」
「どきな! ここはあたしがもらう!」
 サイドから謎パン加えた女の子たちもつっこんでくる。
「ちょっと、ちょっと――」
 背後からバキッと音がする。
 屋上の柵が落ちていく。ふわりとした感覚がまた戻ってくる。
「この屋上には嫌な思い出しかない」
 無駄なあがきは捨てて、三人抱えて落っこちる。
「くっ……今回は私もか。みのり、力を貸せ。私がなんとかする」
 姫奈が器用に正面に来る。
「ここはクッション性抜群のあたしが最適でしょ。みのりくん、力を貸して。みんなを抱きとめるから」
 春野が器用に姫奈を押しやる。
「いやいやここは本妻かつ信頼と実績のリブ以外考えられませんね。ほらマスター、ちゅっちゅの時間ですよ」
「チェンジ」
「おいてめぇ」
 突発的な事故だった。だがそれでも三回目。
「二度あることは三度ある……よね?」
 ドスッと大きな腕に抱きかかえる。それは窓から突き出ている。
「お……重い、四人は……きつすぎる……」
「天城さん!」「天城」「竜童くん!」「竜童」
「特に……春野……」
「なんでこの状況であたしが重いと特定するの!」
「ふっ、やはり」
「乳パージすればいいじゃないですか」
「とりあえずどいてあげようよ」
「もう……む、無理……」
 ずるりと竜童の上半身が、下半身が、窓を乗り越える。
「すまない」
「「「「キャー」」」」
 五人まとめて落っこちる。
 その悲鳴は学園中に聞こえたらしい。

 同時刻。屋上に二人の少女がやってくる。
「ねえ知ってる?」
「ん? なに?」
「この学園って、でるんだよ」
「えっ……でるって、『あの』?」
「そう。それはそれは恐ろしいほど――」
 混ざり合った悲鳴が聞こえて片方の少女はクスクスと笑い、もう一人の少女もつられて笑う。
 二人は空を振り仰ぐ。
 屋上から見える空はまさに快晴だった。
「――とっても素敵な魔王様」